クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

13年前のあの日、あの時・・

東日本を襲った未曾有の大惨事のあの日について、久しぶりに振り返ってみようと思う。
13年前のあの時・・・あの時私は・・・。

あの時私は、ちょうど出張で、普段執務しているオフィスではなく、外出先で仕事をしていた。
出張といっても、泊りがけみたいな遠い場所に出かけていたわけではない。私は埼玉県在住で、職場も埼玉県内で、その時の出張先も同じく県内だった。

その日は出先で仕事が終わったら、職場に戻らずそのまま直帰することが許されていた。これは密かにラッキーなことだった。その日の夜は、コンサートの予定が入っていたからだ。
普段オフィスにいると、急な仕事が飛び込んでくることがある。そうしたことがもし夕方に発生すれば、残業の可能性が高まる。コンサートを控えていると、当然のことながら焦る。
出張で外出し、そのまま出抜けしてしまえば、そうした不意打ちを回避し、問題なく予定通りに会場に向かうことが出来る。内心しめしめだった。


この日のコンサートは、新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会。会場はすみだトリフォニーホール。指揮:ダニエル・ハーディング。プログラムは、ワーグナーパルジファルより第一幕の前奏曲、そしてメインがマーラー交響曲第5番。

この公演の直前、新日本フィルはハーディングと新たな契約を締結した。
「Music Partner of NJP」という新しい役職の就任。事実上の首席客演指揮者待遇。
本公演は、実質的にその就任披露演奏会であった。


午後3時頃、大きな振動の波が埼玉にも押し寄せてきた。それまでの人生で経験したことがない激震。こちらで震度5強という計測だった。オフィスはガタガタと音を立てて揺らぎ、そんな時間が1分以上続いた。一時的に停電となり、PCがシャットダウン。机の上や棚にあった小物が床に落ちたりした。身体が硬直し、顔をこわばらせながら、ただ呆然と時間が経過するのを待つしかなかった。


恐怖に駆られ、文字通り動揺したが、それでも揺れが収まると、徐々に落ち着きを取り戻していった。周りを見回しても、物損など大きな被害は出ていない模様。仲間と「いやー、びっくりしましたねー。かなりヤバかったですねー。」なんて話をしながら、やりかけ途中の元の仕事に戻った。

午後4時頃。仕事の最中に、どうやら公共交通機関、つまり電車が止まっているらしい、という情報が入ってきた。
この時点で、私はまだ新日本フィルのコンサートに行く気満々だった。鉄道会社は、おそらく地震の影響で線路に破損等の被害が出ていないか、確認作業を行っているのだろう。
「頼むからとっとと復旧してくれ」
仕事をしながら、心の中で祈っていた。

午後5時半。仕事は終わった。
だが、電車は依然として動いていない。
これはヤバい。アウトだ。都内に向かうことが出来ない。
コンサートに行けないことが確定。かなり悔しくて、暗澹たる気持ちになった。ふざけんなよ、ちくしょうめ。
この時、東北の沿岸で、あるいは東京電力原子力発電所内で、とんでもない事が起こっていたなんて、つゆ知らず・・・。

午後6時。私は出張先の事務所に留まりながら、鉄道の運行再開を今か今かと待っていた。
もはやコンサートどころではない。このままでは、家に帰ることさえ出来ない。
一方で、事態が相当に深刻、危機的状況であることも、刻一刻と入ってくるネットのニュースで分かってきた。鉄道の運行再開の目処は、絶望的に立たない。私は考えを巡らした。

真っ先に頭に浮かんだのは、出張先から自宅まで徒歩で帰るというものだ。
距離はおよそ20キロ。ということは4、5時間くらいだろうか。大変だが、まあ絶対無理というほどでもない。

もしかしたら何か新しい情報があるかもしれないと思い、とりあえず運行ストップしていた最寄りの鉄道駅に行ってみた。その駅前で、私は一軒の「契約駐輪場兼レンタル自転車屋」を発見した。頭の中でポッと灯りが点灯した。

「自転車を借りよう! 自転車で帰宅しよう!」

借りるということは、返却するためにまたここに来なければならないが、迷う必要なんてない。翌日は土曜日、お休みだ。のんびりとサイクリングしながら、返しに来ればいい。それよりも、とにかく本日なんとしても帰らねば。極力苦労せずに。そっちの方がよっぽど重要だった。

1時間半くらいかけて、なんとか帰宅。家族の無事も確認し、ホッと胸をなでおろした。

帰りの道中、幹線道路は大渋滞していた。ちょうど通勤の帰宅時間帯。電車が止まった以上、多くの人が交通手段として車を出さざるをえず、結果、道が渋滞するのは、必然の理だった。自転車を借りるという選択は、我ながら賢明だった。
私の同僚の中には、会社に泊まった人が何人もいたという。この日、関東圏内でも、帰宅難民と化した多くの人が、同様に会社に泊まり、あるいは何十キロという道を歩いたとのことだ。


後で知ったことだが、新日本フィルのコンサートは開催された。
あの時、都内でも公共交通機関はストップ。このため、コンサートに駆けつけることが出来たのは、会場から徒歩・自転車圏の人たちのみ。その数、わずか100人ほどだったという。そんな状況下でも、新日本フィルは上演を決行した。ものすごい決断だったと思う。

すみだトリフォニーホールは、終演後、帰宅難民の人たちのために、ホールを無料で開放した。
ここで一夜を過ごした人の中には、演奏後、自宅に帰る交通手段を奪われた新日本フィルの奏者の方もいたのだという。


おそらく、指揮者ハーディング氏にとっても、生涯忘れられない日として心に刻まれたのではないか。外国人にとって、異国で災害に遭遇する恐怖といったら・・・。
おそらく彼が以後にマーラーの5番を振る時、必ずやあの日のことがよぎることだろう。

同年6月。ハーディングは、再びすみだトリフォニーホールの指揮台に立った。
曲は、あの時のプログラム、マーラー交響曲第5番。犠牲者の鎮魂と復興への願いが込められた特別公演、チャリティコンサートであった。もちろん私も駆け付けた。
終演後、ハーディングは直ちにホールのロビーに駆け付け、募金箱を持ち、率先して募金活動を行っていた。その献身的な姿を見て、演奏とは別に、私は思わず目頭が熱くなってしまったのであった。