クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

追悼 小澤征爾

小澤征爾氏が指揮した公演に、私はこれまでに計33回足を運んだ。

一番最初は、1980年12月。新日本フィルの第9だった。いわゆる年末第9。
私は当時高校生で、自ら行ったというより、友人に誘われて、というものだった。随分と大昔の公演だが、身体を大きく揺さぶっての激しいタクトだった小澤さんの指揮姿は、薄っすらと記憶に残っている。
友人と一緒に(というか、友人について行くがままに)楽屋入り口に待機し、プログラムにサインをしてもらったのだが、そのプログラムは今、見当たらない。たぶん捨てちゃったんだと思う。(昔から、例外の特別な人を除き、アーティストのサインや写真にはあまり興味が無い。)


その次となる2回目は、翌年となる1981年11月、ボストン響の来日公演。
私は少年期に、ウィーン・フィルベルリン・フィル、それからボストンと同じ年の6月にフィラデルフィア管の公演に行っているが、これらはいずれも親に連れていってもらったもの。
それに対し、このボストン響の公演は、「生まれて初めて自分でチケットを買った、記念すべき外来コンサート」であった。
(もっとも、自分でチケットを買ったといっても、その原資は親や親戚からのお年玉だが・・。)

プログラムは、「レオノーレ序曲第3番」、「ベト8」、「春の祭典」。
これが、超が付くほどの期待外れ、がっかり公演(笑)。

演奏がマズかったというより、予習のために別の演奏の録音を聴きこみすぎて、頭にこびり付いた結果、完全にスタンダード化してしまい、ギャップが生じて「こんなんじゃねえ・・」になってしまったという惨憺たるもの。
この時私は、「予習は、やりすぎは良くない」ということを学んだ。高校生にとって、実に高い授業料だった。
(もしかしたら、演奏もマズかったのかもしれないが、まあそれはアレとして・・・)


初めて彼が振るベルリン・フィルを聴いたのは、1986年10月。
サントリーホール開館記念シリーズの一環。本当はカラヤンが振る予定だったが、病気でキャンセルとなり、弟子の小澤さんが代替を務め、指揮台に立った。
普通だったら、天下のベルリン・フィルを日本人が振るというのなら、そりゃもう貴重な公演なはずだが、やはり「カラヤン、キャンセル!」ですからね。ありがたみはビミョー(笑)。


一方、初めて彼が振るウィーン・フィルを聴いたのは、1988年8月。
以前に旅行記で書いて紹介したが、初ヨーロッパ旅行でのザルツブルク音楽祭
スケジュールを把握した上でこれを狙ったのではなく、現地に行ってみたらたまたまやっていて、たまたまチケットが残っていて、運良く聴けた、というもの。

ただし、これもねぇ・・・演奏曲が当時まったく知らなかったオネゲル「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で、鑑賞後の感想としては、やっぱりビミョー(笑)。
頼むから、ベートーヴェンとかマーラーとかシュトラウスとか、そういうのやってくれって。
でも、コンサート終了後、会場で見知らぬ外国人さんに「日本人ですか? セイジ・オザワ、素晴らしいですね!」と声を掛けられ、嬉しく、誇らしかったことを覚えている。


私が人生で最も敬愛するアーティスト、ソプラノ歌手のヒルデガルト・ベーレンスさんとも、共演パートナーとして非常に強固な信頼関係で結ばれていた。
彼女が来日した1991年12月と1999年3月、新日本フィルを指揮し、「神々の黄昏」より「ブリュンヒルデの自己犠牲」などの歌唱の伴奏を務めた。これらの演奏も、思い出深く、忘れられない。
小澤さんは、ベーレンスだけでなく、ロストロポーヴィチジェシー・ノーマン、ヨー・ヨー・マなど、数多くのトップアーティストから信頼され、名演奏を共に築いていった。


絆と言えば、マルタ・アルゲリッチだって、そうだ。
姐さんは自分の名前を冠した別府の音楽祭に出演することもあって、ほぼ毎年のように日本にやってくるが、ついでに東京でコンチェルトをやる時は、パートナーとして小澤さんが指揮をする機会が多かった。

ということで、私が聴いた小澤さんのラスト公演というのが、2017年5月、水戸室内管弦楽団アルゲリッチとの共演。
この時、既に病気の影響でフルのプログラムを指揮することが出来ず、メイン・プロのベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、一曲のみだったが、十分に凄く、十分に熱く、魂が込められた演奏で、感動した。

カーテンコールでは、姐さんと仲睦まじく手を繋いで登場。その後のアンコールでは、近くの椅子に腰掛け、オーケストラ奏者たちと一緒に彼女の貴重なピアノ・ソロ演奏を聴き、とても嬉しそうな表情をしていたのが、印象的だった。


ステージを離れたプライベートでは、たった一度だけ、偶然お見かけしたことがある。
どこでだと思います??

横浜、JR横浜線小机駅の改札を出た所。
2002年6月30日。この日は、サッカーFIFA日韓ワールドカップの決勝戦
そう、つまり小澤さんは、日本で開催されたワールドカップの決勝(ブラジル対ドイツ)を観戦するため、スタジアムに向かうところだった。その最寄駅でマエストロを発見した。
ボストン・レッドソックスのファンだったということはよく知られているが、サッカーも観るんだね。)
その時、私と一緒に観戦に出かけた友人は、小澤さんに記念撮影を頼み、私が友人くんのためにツーショット写真を撮ってあげた。私はというと、別に「いらねー」と思って、頼みませんでした(笑)。


さて、最後に、小澤征爾という指揮者の演奏・音楽について。
正直に白状するが、自分にとってはそれほど大きな存在、特別というわけではなかった。名指揮者であり、悪かろうはずがないが、あくまでも個人的な好みとしては、概して「まあまあ」くらいの感じだったと思う。

だが、「日本人としての功績」という観点で評価すれば、間違いなく不世出の音楽家だった。
彼ほど世界の檜舞台で活躍し、頂点を極めた日本人演奏家はこれまでいなかったし、もう二度と現れないかもしれない。
ボストン響の音楽監督を29年間務め、世界最高のウィーン国立歌劇場音楽監督にまで登り詰めた。ウィーン・フィルベルリン・フィルの指揮台に頻繁に立ち、それぞれから多大な功績が認められ、名誉団員の称号が与えられた。ワールドなクラシック界で、完全に一時代を築いたわけである。

世界中で誰もが知っている日本人というのは、実際のところほとんどいないのが現実だが、彼はその貴重な一人だった。

小澤さんは、後進の音楽家を育てることにも熱心だった。いつかまた、世界に君臨する指揮者が登場してほしい。小澤さんも、天の上からそう願っているだろう。