クラシック、オペラの粋を極める!

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2022/6/26 都響

2022年6月26日   東京都交響楽団   サントリーホール
指揮  クラウス・マケラ
ジノヴィエフ  バッテリア
ショスタコーヴィチ  交響曲第7番 レニングラード


噂はホンモノであった。クラウス・マケラ、この若者、やはりとてつもない才能の持ち主だ。

・・・と、諸手を挙げて絶賛する前に、一つ断っておきたいことがある。

この日、メインのショスタコ演奏後、日本のオケでは珍しいくらいのものすごい拍手喝采が巻き起こった。ブラヴォーこそ控えられたが(いったい、いつになったら解禁になる?)、コロナ以前だったら熱狂的な歓声の雨あられだったことだろう。ソロ・カーテンコールも2回に及び、SNS上では終演後、「名演」の二文字があちこちで躍った。

そう。みんな「名演」だったと口々に言う。
この名演というのは、文字どおり見事な演奏という意味。みんな、「演奏が素晴らしかった」、「指揮者やオケがすごくて感動した」と思い込んでいる。
だが、その感動の源は、演奏ではなく、「曲」だったというパターンが結構多い。作品そのものに感動しているのだ。作品が人々に感動をもたらすほどの極上逸品だったのだ。
で、そのことに気付いている人は、案外少ない。
(これらは、以前にも何度となく書いている。)

みんなの感動にケチを付けるつもりはないが、でもあえて言わせていただきたい。大のショスタコ好きとして、スマンが言わずにはいられない。

ショスタコの7番は、感動的な作品である。」
ショスタコーヴィチは、偉大である。」

ブラヴォーを叫ぶにあたり(叫べないけどな)、どうか、是非とも、その曲を作った作曲家に思いを馳せたいものだ。


さて、一言断りを入れたところで、それではマケラの賛辞に移る。
素晴らしいと思った点はいくつかあるが、特に感心したのが、次の2点だ。

・往々にして若い指揮者は漲るエネルギーをパワーに変換し、鋭い運動神経から繰り出される自由自在のタクトによってオーケストラをグングン推進させようとするが、マケラの場合、ドライブするのではなく、オーケストラから自発的な音楽を引き出すことに専心し、その効果を上げていたこと。
・作品解釈において、ディティールの掘り下げと、全体的な構造把握の両方を同時並行で、高いレベルでこなしていたこと。

この2点に共通するのが、作品に対する客観的視点、俯瞰的視野である。

この立ち位置に至るまでに、普通は相当の経験が必要になる。

で、改めて言うが、彼は若干26歳なのだ。
経験が問われ、経験がモノを言う世界で、その必要性を超越し、凌駕する。

天才の天才たる所以であろう。

オーケストラもまた、彼が天才だということを瞬時に気が付いたはずだ。
導かれるがままに奏でた音が、あたかも魔法のように胎動を始め、熱を帯びて昇華し、壮大な音楽となって構築していく。そうした様を、間近で見つめたのである。聴いていた我々と同様にゾクゾクしたことだろう。
こうした体験こそプロ演奏家冥利に尽きるのではないだろうか。


次に、ショスタコ7番の話に移る。
この作品がナチスレニングラード侵攻をきっかけにして作られたことは周知のとおり。
今、ウクライナで起きている戦争のニュースを目の当たりにし、私はもはや冷静な心境でこの曲を聴くことが出来ない。第1楽章の中間部、小太鼓のリズムに乗りながら繰り返される「ボレロ」のパロディのようなメロディーを、以前は微笑ましく聴いていたが、今は同じように聴くことが出来ない。

プログラムによれば、ショスタコーヴィチは私的の場で友人に「私には戦争はこう聞こえるんだ」と語ったのだという。

分かる!!

戦争の影というのは、このようにそっと、密やかに、穏やかに優しく、いつの間にか忍び寄り、やがて津波のように押し寄せ、気がついた頃にはもう手遅れで、巻き込まれ、破壊と殺戮の真っ只中に置かれてしまう。

この曲には、それが描写されているのだ。

怖い、怖い。胸が張り裂けそうになる・・・。