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2021/11/24 新国立 ニュルンベルクのマイスタージンガー

2021年11月24日  新国立劇場
ワーグナー   ニュルンベルクのマイスタージンガー
指揮  大野和士
演出  イェンス・ダニエル・ヘルツォーク
管弦楽  東京都交響楽団
トーマス・ヨハネス・マイヤー(ザックス)、ギド・イェンティンス(ポークナー)、アドリアン・エレート(ベックメッサー)、シュテファン・フィンケ(ヴァルター)、林正子(エヴァ)、山下牧子(マグダレーネ)、伊藤達人(ダーヴィッド)    他


第一幕前奏曲を聴きながら、色々な思いが巡ってきて、それら一つ一つを噛み締める。

思えば昨年2月、この新演出プロダクションを鑑賞しようとしてドレスデン行きを目指したというのに、冬の嵐に阻まれ、鑑賞が叶わなかったのである。(ザクセン州立歌劇場などとの共同制作だった。)

捲土重来を期した東京でのプレミエは、本来ならドレスデンの上演から4か月後に幕が開くはずだった。
それが、コロナで延期。
今年の8月、先駆けて東京文化会館で上演されるはずだったのに、これまたコロナで中止・・。

ようやく・・ようやくここに辿り着いたわけだ。

それ以外にも、「マイスタージンガーの第一幕前奏曲は、大学時代に所属した管弦楽部で私も弾いたっけなー」とか、「私が観光ではなくオペラを観るために初めてウィーンに行った時、そこで鑑賞したのが『マイスター』だったよなー」とか・・・。

そうした様々な思いが巡り重なったからであろうか、前奏曲の響きが私のハートをズンズン直撃し、感傷で押し潰されそうになる。まだ第一幕の前奏曲だというのに・・・。


大野和士がリードする都響の演奏がいい。
本場ドイツやウィーンなどの一流歌劇場公演の演奏と比較するつもりはない。そんなことをしたってしょうがない。しっかりとした、どっしりとした、あたかも大河が流れるかのような滔々脈々たる演奏。
ああ、これはワーグナーだ。私の大好きなマイスタージンガーだ。なんて素晴らしい音楽なんだろう。

もう、それだけで十分だった。

驚くべきは、これだけの長丁場の演奏で、緩んだり、バテたり、ガス欠になったりすることなく、最後までパワーが持続したことである。
もちろん大野さんのリードのおかげもあるだろうし、都響の皆さんの実力やペース配分のおかげというのもあるだろう。
だが、私は思う。
この活力を生み出す源泉は、ワーグナー作品そのものに秘められている。誰が何と言おうとも。


歌手について。
ダントツに素晴らしいのはA・エレート。現代最高のベックメッサーの面目躍如。他の歌手が「◯◯役を演じ、歌っている」という印象を抱かせるのに、エレートだけは役そのものが浮かび上がる。
ザックスを歌ったT・J・マイヤーも十分に立派だった。今回が初ロールだったとのことだが、これからはあちこちでこの役で勝負できるだろう。

エヴァ役の林さんは、どこに基準を置くかで評価が変わってくる。
「日本人として」とか「今回の新国立劇場において」とかであれば、これ以上無いくらい素晴らしい。ドイツ語の違和感もほとんどない。
だからといって、じゃあ彼女が上記のマイヤーのようにこの役を引っ提げ、欧米の一流劇場で歌えるかと言えば、やっぱり難しいと思う。残念ながら、まだ突破できない壁が存在しているように見える。


演出について。
「劇場の舞台裏」に焦点を合わせ、読み替えた現代演出。ザックスは劇場のインテンダントで、ポークナーは同劇場の有力スポンサーという設定。その着眼点は面白いと思うが・・・。
そうやって視点を変えれば変えるほど、物語やセリフとの齟齬、乖離がどうしようもなく際立ち、収集がつかなくなる。どうして劇場インテンダントが、ハンマーを持って靴を鍛えるのか? 説明がつかず、単純に破綻している。

ただし、それでも私は「失敗作」という烙印だけは押したくはない。なぜなら、少なくともそこに演出家の探求の足跡が見えたからである。

例えば、衝撃的(?)なラストシーン。ワルターが晴れてマイスターになったという証である彼の肖像画エヴァがブチ破り、ワルターと手を取り合って立ち去るという演出上の解釈。
明らかにハッピーエンドを覆す挑戦的な仕掛けで、人によっては嫌悪感を催すかもしれない。

でも、私は「こういう結末もあり」だと思った。
エヴァは婚約者を自ら選べない贈呈品なのである。こんなの現代社会において、女性の自立という観点上、ありえない。そこにメスを入れたということ。
これこそがまさに現代演出の意義であり、舞台芸術の存在価値なのだ。
私たちは今という時代を、社会を、人生を、考え見つめなければならない。たとえその演出に好き嫌いがあるにしても。


もうひとつ、最後に恨み節を言わせてほしい。
ドレスデンザルツブルクでの原演出版を見ていないが、間違いなく、確実に、大幅変更が施されている。
大合唱が使えないこと。出演者同士に無理やり間隔を設け、自然な演技が阻まれたこと。

出来上がったものは、完全に妥協の産物だった。それは、芸術分野において本来絶対にあってはならないものなのだ。

私は恨む。コロナの大馬鹿野郎め。とっとと死滅しやがれ。