2021年10月21日 東京都交響楽団 サントリーホール
指揮 大野和士
藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)
R・シュトラウス 交響詩「死と変容」
ツェムリンスキー メーテルリンクの詩による6つの歌
R・シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
大野さんが描くシュトラウス、それから都響の優れた演奏技術を目の当たりにして、その水準の高さに「さすが」と舌を巻きながら、それでいてどこかイマイチ完全に満足しきれない違和感を拭い切れないでいる自分がいた。
演奏そのものは素晴らしいのに・・・。
その違和感は、「たぶん」「私が思うに」という注釈付きで、自分を納得させることが出来る。
大野さんはシュトラウスの2作品について、スコアを解析し、シュトラウスの管弦楽技法のポイントをしっかりと見抜いて、それを堂々と提示した。
それは、理路整然であり、分かりやすく、効果的だった。
一方で、シュトラウス自身の作曲アプローチにおいて、スコアの構成や管弦楽技法は単なる手段であって、それ自体「言いたかったこと」ではない。
「死と変容」と「ツァラトゥストラはかく語りき」の作品の中には、テキストにもあるとおり、宇宙、思想、自然、宗教といった観念が積まれていて、その点において彼の他の作品、例えば「英雄の生涯」や「ドン・ファン」、「ティル・オイレンシュピーゲル」などとは、趣きを異にする。
要するに、技法では語れない哲学が内在しているのである。
実を言うと、聡明な大野さん、そこら辺は重々承知、しっかりお見通しであり、そこに踏み込もうとしているのは明白だった。
だが、あくまでも個人的推測だが、踏み込むためのアプローチとして頼りにしたのが、やはり原典であるスコアだったのだと思う。
翻って、独墺系の指揮者がシュトラウス作品を演奏する時、彼らはそこまで追求しようとしない。
既に自分の身に形成され、備わっているバックグラウンドを駆使して楽曲のテクスチュアを開示した時、圧倒的な説得力を伴って音楽が構築されてしまう。
私なんかは、外来公演とかで、結局はその有無も言わせぬバックグラウンドの説得力にやられてしまう、というわけなのだ。
違和感とは、つまりそういうこと。残念なことに、ドイツの指揮者やドイツのオケにあって日本に不足する決定的な物なのであった。
なんだかちょっと理不尽だと思うが、それが現実であって、だから私はつい外来公演に足を運んでしまうわけである。
本公演については、そうした違和感を完全に忘れさせてくれたという意味で、藤村さんが歌ったツェムリンスキーの演奏が、もしかしたらハイライトだったのかもしれない。