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2021/8/28 二期会 ルル

2021年8月28日   二期会   新宿文化センター
ベルク  ルル
指揮  マキシム・パスカル
演出  カロリーネ・グルーバー
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
森谷真理(ルル)、増田弥生(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、高野二郎(画家)、加耒徹(シェーン博士)、前川健生(アルヴァ)、山下浩司(シゴルヒ)、北川辰彦(猛獣使い、力業師)、中村蓉(ソロダンサー)   他


二期会会心の一撃。カンパニーの総力を束ね、充実度を極めた高水準の出来栄えだ。

私がこれまでに鑑賞した中で印象深かかった二期会公演として、2015年10月に上演されたR・シュトラウスの「ダナエの愛」が挙がる。
しかし、どちらかと言えば「なかなか上演されないレア作品を、よくぞやってくれた」という感謝の念が大きかった。純粋なる上演レベルの成果で、これほどの鮮やかな感動をもたらしてくれたのは、久しぶり。ていうか、もしかしたら初めてかもしれない。

これまでにも意欲的なプロダクションはあった。二期会は、他の劇場との共同制作やレンタルなどによって、世界的な演出家が創り上げたプロダクションを持ってくる機会を積極的に作っている。そのおかげで、創造性のある演出や舞台に接し、目を瞠ることはあった。
だが如何せん、歌手のレベルがそこに追い付かず、残念な舞台を「あーあ・・」と思いながら見つめることが何度もあった。私のブログの感想記事で、最初に演出について述べ、次に指揮者とオーケストラについて述べたら、「はい以上、おしまい」となることさえあった。ド素人ファンの戯言など取るに足らないが、歌手の団体である以上、その実力は正当に評価されたいというのは、偽らざる本音だと思う。

本公演に出演した歌手たちは、そうした過小評価に強烈な反撃パンチを見舞うほどの、颯爽たる活躍であった。

特に、主役ルルを歌い演じた森谷真理さん。手放しで絶賛させていただきたい。
至難な役であることは一目瞭然、誰もが知っている。単に歌うだけでなく、難解な音楽の完成度を追求し、なおかつ演出の要請に応え、女優並みの演技をする。舞台上で圧倒的な存在感を示しながら、観客の心にルルの生き様をストレートに突き刺す。これらをパーフェクトに務めることが、どれほど大変なことか。

シェーン博士を務めた加耒さんも、これが代役だったとは信じられないくらい見事だった。

日本人歌手を眺めていていつも思う「ワタシ、一生懸命演技してます」感も、ほとんど感じられなかった。きっと演出チームと話し合いを重ね、十分に研究し、稽古してきたからだろう。彼らは、体に染み付くくらいに歌と言葉と演技を合体させる努力を積み重ねたのだ。その成果は、際立つほどに現れていた。
もしかしたら、公演が一年延期になったことも、吉に繋がったのかもしれない。すべての出演者の方々の演技と歌唱の両面において、完全に熟成されていた。


演出について。
本公演のチラシやポスターに書かれていたキャッチフレーズ。
「魔性と呼ばれた私の真実の心--」
まさにこれがカギだった。
「ルルとは何者なのか?」
この答えが、演出家の深く鋭い探求によって、明快に導き出されていた。

ポイントは3つ。
男たちの視点の先にある女。それから、「ルル」というキャラクターを背負った女。そして、「ルル」の本当の姿。
これらの3つの像を表すために、演出家は歌手自身の他に、マネキン人形と分身の黙役ダンサーを配置。更に印象を増幅させるために映像も使用。こうした効果が融合して、真実が明かされるかのような筋の通った舞台が完成した。

「男たちの視点の先にある女」という解釈を全面に打ち出した演出版を、私は以前に見たことがある。ハンブルク歌劇場で観たペーター・コンヴィチュニー演出のプロダクションである。
グルーバーの演出は、更にもう一つ「ルル自身」という視点を加えたことで、舞台の深層が三次元的になっていた。主人公の内面に迫り、ルルの表面的な人格の歪みとは異なった、出自から生い立ちを経て心に蓄積されていった孤独感や寂しさまでを露わにして見せた。それらは目からウロコで、驚きであり、興味深く、そして画期的だった。

また、全体的なコンセプトだけでなく、場面やシーンに施した意図的な細かい仕掛けについても、よく練られ、上手く作られていた。
例えば、可動式の4つの舞台装置の2台にまず「L」「U」の文字を浮かび上がらせ、残りの2台にも「L」「U」と続けて「ルル」と読ませるのかなと想像させておき、「S」「T」⇒「LUST」⇒「情欲」を暗示させて見せたり、あるいは色欲の象徴であるマネキンを映像上で次から次へと増殖させて、卑猥な下心を持つ男たちの蔓延りを表現したり、そうしたマネキンの中に一つだけ聖母マリアの像を紛れ込ませて、女性に清廉さや純真さを求める男たちの願望(それは同時にルルの持つ一面でもある)を表したり・・・。

二幕版にし、ラストを通常のルル刺殺にしなかったことで、ルルの精神の解放と、未来に託された女性の解放の両方を暗示させることとなった結末も秀逸。観客は自らの想像を働かせ、考えるためのメッセージを受け取ったのだ。これこそが我々が劇場に足を運ぶ意義なのである。


マキシム・パスカル指揮東京フィルの演奏も、鮮烈だった。
演出家が物語を読み解く作業に没頭するのと同様に、パスカルもまた、スコアの読解に余念がなかった。複雑な響きは整然と解かれ、退廃的な旋律や不協和音さえもが有機的な香料となり、クラクラするほどの陶酔感を醸し出させた。


実は東京フィルも、「ピットに入ると、なぜかイマイチ」と時々陰口を叩かれるオーケストラだった。彼らもまた、こうしたネガティブ評価を思い切りぶっ飛ばして見せた。

こうしてみると、二期会、そして東京フィルも、今回の公演では見事に下馬評を覆して、してやったりの高笑い、「やるときゃやるんだ、ざまーみろ」とばかりに溜飲を下げたのだろうかと、思わず勘ぐってしまう。

でも、そんなことを考えるのは、下世話な連中だけなのかもしれない。
彼らの達成感は、音楽のパーツになって崇高な舞台芸術の完遂に寄与した誇りそのものなのだ。

我々はプロの演奏家によるプロの仕事に対して、もっと敬意を払うべき。
改めてそう思った。