2021年7月3日 新国立劇場
ビゼー カルメン
指揮 大野和士
演出 アレックス・オリエ
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
ステファニー・ドゥストラック(カルメン)、村上公太(ドン・ホセ、歌唱のみ)、村上敏明(ドン・ホセ、演技・セリフのみ)、アレクサンドル・ドゥハメル(エスカミーリョ)、砂川涼子(ミカエラ)、妻屋秀和(スニガ)、吉川健一(モラレス) 他
終演後、私の隣りの席だったご夫妻の旦那さんが、唸るかのように奥様に語りかけていた。
「いやー、斬新だったねえ・・」
斬新かぁ・・。
そう言えば、大野和士さんも開幕前の宣伝プロモーションで言ってたっけ。
「是非お越しいただき、斬新な舞台をお楽しみください」と。
斬新ねぇ・・。
まあな。伝統的なオーソドックス舞台を期待していたファンからすれば、確かに斬新なのだろう。
だが、読替演出を前提でこの舞台を眺めれば、はっきり言って別にそれほどでもない。
演出家は、物語を現代に置き換えた。ならば我々も、カルメンみたいな連中が今の世の中でどういうカテゴリーに属するのか、想像を巡らしてみよう。
そうした時、ゴーイング・マイウェイを地で行き、ちょっとアングラで、いかにも裏で酒やタバコにまみれているバンドとかミュージシャンなどのイメージに辿り着くのは、実はそれほど突飛なことではない。公演ツアーで各地を飛び回り、ホテル暮らしが長くなる売れっ子ミュージシャンは、ある意味ジプシーみたいなもんだからね。事実、まったく同じようなコンセプトの舞台を、私はドイツ国内の劇場で観たことがある。(むろん、舞台装置などは全然異なるが)
嫌味ったらしいが、あえて私個人の感想として言ってしまえば、「アレックス・オリエほどの著名な演出家にしては、凡庸な演出」である。確かにぱっと見た目は斬新っぽく見えるが、それでごまかされたりはしない。
世界の最先端演出の潮流において、もはや物語を単に現代に置き換えるだけではダメなのだ。
自由で、信念を貫き、死の運命から逃げなかったジプシー女カルメンは、確かにこの舞台でステージ・シンガー、スター歌手として蘇った。
だが、現代女性のどの部分と相通じるのか、今どきの彼女が心の中に何を抱えているのか、そうしたものが見えてこない。掘り下げ方が浅いのだ。
更に曖昧だったのが、ドン・ホセ。何者なのか、現代社会に身を置く男性としてどういうキャラなのかが、全然はっきりしない。
現代に置き換えるのなら、いっそのこと、例えばネットの仮想空間にいるアイドルに夢中で、生の奔放な女性の扱い方を知らないオタク、みたいなキャラを作った方が、よっぽどタイムリーのような気がするが。
要するに、二人とも現代衣装を着ているだけで、私にはオーソドックスな「カルメン」というオペラの物語にいる主人公二人と同じに見えてしまうのである。
結局、演出における人間の描き方が表面的で薄っぺらいのだ。
・・やれやれ、私は結局ただの口うるさい辛口ド素人評論家なのだろうか・・。
私が上に述べたようにドン・ホセをオタクに仕立てて実際の舞台で展開させたら、今度は保守的なお客さんから「物語をぶち壊すな!」と非難轟々になるんだろうな・・・。
最初に述べたように、これで「斬新だ!」と唸ったお客さんもいたわけだ。オリエの目的はこれで十分達したのだろう。残念ながら、深く考えさせられる舞台を見慣れていない日本人の浅はかさが、図らずしもこういうところで露呈してしまうわけである。
本公演で、むしろ目を見張ったのは、指揮者大野さんが作り上げた音楽全体の完成度であった。
実に隙が無い。劇的で、リアルで、情緒的な「カルメン」を丁寧に描いている。場面のどこを切り取っても音楽的。特に序曲や間奏曲は鮮やかで、聴かせる。
これぞ芸術監督の仕事といった感じで、感服した。
タイトルロールを歌ったステファニー・ドゥストラック。
一生懸命に、「ドゥストラックのカルメン」を披露していた。声そのものはそれほど強い印象を抱かせるものではなかったが、音楽的には実に考え抜かれていたし、確立されていた。
この日、ドン・ホセを歌う予定だった村上敏明氏が、大野さんの説明によれば「本番までに声の調子が上がってこなかった」とのことで演技とセリフのみとなり、急遽、カヴァーだった村上公太氏が舞台袖で歌うことになった。
ライブである以上こういう事は起こりうるし、私自身もこれまでの数多くのオペラ鑑賞体験の中で、何度か遭遇している。でも、日本ではきっと稀なことだっただろう。
カヴァーの村上さんは、立派な歌唱で見事に代役をこなした。素晴らしかったと思う。
一方で、最初からカヴァー役だったのだから、袖で楽譜を見ながら歌うのではなく、舞台出演できなかったのか、と思った。
だって、そのためのカヴァーなんでしょ?? カヴァーってそういう準備をしているものなんじゃないの??