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2020/10/10 新国立 真夏の夜の夢

2020年10月10日   新国立劇場
ブリテン   真夏の夜の夢
指揮  飯森範親
演出  レア・ハウスマン(原演出:デイヴィッド・マクヴィカー
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
児童合唱  TOKYO FM少年合唱団
藤木大地(オベロン)、平井香織(タイターニア)、河野鉄平(パック)、村上公太(ライサンダー)、近藤圭(ディミートリアス)、但馬由香(ハーミア)、大隅智佳子(ヘレナ)、高橋正尚(ボトム)、妻屋秀和(クインス)    他


予想を遥かに上回った素晴らしい上演。

実は、指揮者、演出家、歌手など海外からの客演キャストが日本に来られなくなったことが決まった時点で、私の期待値は急降下した。日頃から慣れているヴェルディプッチーニならともかく、ブリテンの、しかも日本でほとんど上演されたことがない「真夏の夜の夢」の上演をオール日本人キャストでやることなど、到底無理だと思ったからだ。

もちろん、単にそれらしく仕上げる程度なら出来るだろう。
だが、ブリテンの音楽は独特だ。響き、旋律、オーケストラの扱い、どれもブリテンのオリジナリティ溢れる世界観で構成されている。ブリテンのオペラを上演するには、このブリテンの世界観を分かっていないとダメ。これは演奏技術の問題ではなく、カルチャーの問題。
いくつもの名作を世に出しているにもかかわらず、世界でなかなかブリテン作品が上演されないのは、そうした高い敷居が存在するからだ。
ゆえに日本人オンリーでは無理。
そう思っていた。

ところが、フタを開けてみれば、今回の舞台にはブリテン特有の世界観が見事に表現されていたわけである。

出演の歌手の皆さんの頑張りも大きかっただろうが、とりわけ指揮者飯森さんの手腕を大いに讃えなければならないだろう。

この「真夏の夜の夢」には、「妖精」、「恋人たち」、「職人さんたち」という物語を構成する三つのエレメントがあって、それぞれにキャラクターの色合いがある。
この色合いの調整度合いによって、神秘的で幻想的で繊細なアンサンブルが出現するかどうかが決まる。
難しいのは、三様の色合いをそれぞれ際立たせようとすればまとまりがなくなり、逆に融合を図ろうとすれば色合いが薄まって曖昧になってくること。
実はこれ、演奏側だけでなく、聴き手に対しても突き付けられる課題で、漠然と聴いていると作品の本質がなかなか捉えられない。ある意味、非常に厄介な曲なのだ。上で「カルチャーの問題」「高い敷居の存在」と言ったのは、そうした側面が潜んでいるからだ。

おそらく解決の鍵となるのは、雰囲気を作り、カラーを装飾する役割を担っているオーケストラの楽器の鳴らせ方で、つまり指揮者の領分である。

本公演で初めてこの曲を聴いたという人は多かっただろう。(ていうか、一部のマニアを除き、ほとんどの人がそうだったに違いない。)
にもかかわらず、シュールで難解な音楽として気に障ることなく、シェークスピアの幻想的な物語への勧誘として受け取ることが出来たのは、飯森さんのタクト、音の紡ぎ方、サウンドの構築の仕方が秀逸だったからだ。改めて指揮者を讃えたいと思う。

出演歌手の方々の出来栄えも、まったく申し分なかった。
感心したのは、英語の発音やイントネーションがきちんと旋律に乗っていて、とてもスムーズだったこと。特に、セリフのみ(一部、歌うところがあった)のパック役の河野さんは完璧だった。

カウンターテナーの藤木さんの歌声にも魅了された。
調べてみたら、彼は2003年の新国立劇場公演「フィガロの結婚」にちょい役のドン・クルツィオで出演していた。
その後カウンターテナーに転向し、やがてウィーン国立歌劇場にも出演するなど、躍進が目覚ましい。来月のBCJ公演のヘンデル「リナウド」にも出演予定で、これからも楽しみな逸材になりそうだ。


演出について。
原演出のマクヴィカーのコンセプトによると、舞台は屋根裏部屋での出来事であるとのこと。

なるほどねー。

日本には「屋根裏部屋」が備わる家屋というのがあまりないので、多くの人がピンと来ないと思う。
私は若かりし頃、ヨーロッパの貧乏旅行で宿代をケチった際、よく屋根裏部屋をあてがわれた。
暗くて狭くて閉塞感が漂っていて、小さな窓が天井に付いている。夜になると月明かりが差し込み、覗き込むとそこから星空が見えたりした。
小さな空間の中で天井の窓を見上げ、そこで出来ることといったら、想像や夢を膨らませ、思いを巡らせるくらい。
つまり、おとぎ話はそこから出発するというわけで、私にはそうしたコンセプトが自らの経験上、とてもよく理解できた。

今回、キャストだけでなく、演出チームも来日が不能となったことで、リモートによって演技を付けていったとのことだが、「そういう時代になったのだな」という率直な感慨が湧く。
演技的に、会話をしているのに向き合わず、接近せず、客席の方向を向いて歌う姿勢というのは、普段だったらツッコミを入れたくなるところだが、ソーシャルディスタンスの確保ということで、こちらも受け入れなければいけない方式ということ。

感染対策という意味で、カーテンコールで普段なら歌手たちが一同手を繋いで答礼する儀式も、手繋ぎを回避。「withコロナ」によって失われる伝統は確実に存在するわけだなあ、と何だか寂しくもあった。