クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

蝶々夫人(マダム・バタフライ)

 なんという素晴らしい作品をプッチーニはこの世に残してくれたのか!
 蝶々夫人は数あるオペラの中でも誰もが認める偉大な作品の一つ。世界においてオペラという芸術分野が存続する限り、プッチーニの名声とともに未来永劫にまで輝き続ける作品である。
 そんな偉大な作品の舞台がこの日本であり、主役が日本人女性なのだ。これってすごくないっすか?
 
 おそらくプッチーニ自身にはそんな意識はなかったかもしれない。だが、間違いなくこれは我が日本国に対する特大スペシャルな贈り物だ。我々日本人はプッチーニにどれだけ感謝してもし尽くすことなどできないだろう。なぜならこの作品には、古くから脈々と流れる日本人の美徳と観念が見事に描写されているのだから。
(原作及び脚本はアメリカ人の作によるらしいが、プッチーニがオペラにしてくれたおかげで不朽の名作になったことは間違いないのである。)
 
 ここに登場する主役の日本人女性は、悲劇の王妃でもなければ、色恋に悩んだ挙句に狂乱する可憐な乙女でもない。愛する人をひたすら信じて待ち、己の信念を貫き、名誉のために死を選ぶ気高い女性なのである。これぞジャパンプライド!
 
 いや良かったではないか、ピンカートンみたいなふざけた野郎が日本人じゃなくてさ。
 
 もし蝶々さんに当たる役がどこかの東南アジアの女性で、ピンカートンに当たる役が日本人だったら、はたしてこれほどの人気と支持を得ただろうか。ビミョーである。
アメリカ人のオペラファンに、このふざけたヤンキー野郎のことをどう思っているのか聞いてみたいし、「オマエらの本性って結局これだろ?」と突き詰めてやりたいとも思う。)
 
 
 さてこの作品には、他のオペラにはあまり見られないもう一つの特長的な姿がある。
 
 それは、子供の存在だ。
 夫が自分の許に戻らないばかりか、目の中に入れても痛くない我が子さえも連れ去られようとしている蝶々さんの苦しみ、絶望、断腸の思い。自刃しようとしたその瞬間、子供が駆け寄ってきた時の激しい動揺と悲しみ。
 ここに「子供を想う母の愛」がきっちりと描かれている。それは石よりも固く、地球よりも重い。であるが故に、観ている人は気持ちを強く揺さぶられ、涙する。
(ミュージカル「ミス・サイゴン」は蝶々夫人がベースになっていると言われるが、ミス・サイゴンでは、子供の将来を慮り、養育権を自ら差し出す。ここが決定的に違う。)
 
 プッチーニが子供の存在を極めて重要なものとして位置づけているのは、音楽を聴けば直ちに分かる。
 母である蝶々さんに連れられて初めて子供が登場する場面、プッチーニはこの作品の中で最大級のフォルテで、ドラマチックな音楽を構築させている。この場面こそがクライマックスだと言わんばかりに。
(CDでは、カラヤンの演奏が最高。力の込め方が尋常ではない。)
 
 このシーンに続いて蝶々さんが「屈辱にまみれて生きるのだったら死を選ぶわ」と歌う場面、「子供の名前は今は『悩み』だけど、父が戻ったら『喜び』に変わるのよ」と歌う場面、これらは本当に本当に感動的。何度聞いても泣ける。(この歌唱でフレーニの右に出る者は誰もいない。決していない。)
 
 数多くのオペラの中で、子供の存在がかくもクローズアップされた作品が他にあるだろうか。
 
 ざっと考えてみたが、他には「修道女アンジェリカ」と「ヴォツェック」くらいしか思い浮かばない。修道女アンジェリカもプッチーニ作品であるから、いかにプッチーニがこのテーマを重視しているかが分かる。
 
 
オペラ演出に関して、既に皆さんご存知のとおり私は現代演出肯定派である。読替え大いに結構である。
ただし、条件がある。
演出家が作品の核心をしっかりと捉えた上で、観ている我々に明確なメッセージを発信すること。
 
 その意味において、「蝶々夫人」では上記のとおり「蝶々さんの命を懸けた一途な信念」と「我が子に対する愛情の深さ」の二点は絶対的に押さえなければならないポイント。そこさえ捉えていれば、はっきり言っちゃえば、舞台装置、衣装、所作や立ち振舞いといったいわゆる「日本風のもの」なんかは、私は二の次でいいと思っている。
 
 2006年11月、私はミュンヘン・ゲルトナープラッツ劇場で蝶々夫人を観た。演出はお騒がせ演出家の一人、ドリス・デーリエ女史だった。
 デーリエ氏は時代を現代に移し、蝶々夫人を、原宿界隈をウロウロし、ケータイ片手にメイクとファッションに夢中になっているコスプレギャルに置き換えてしまった。あっちゃあーー。
こいつ何にもわかっちゃいないね。
もちろん目を覆わんばかりの惨憺たる舞台であったことは言うまでもない。
演出家は「これが現代日本の現実だ」とでも言いたかったのかもしれないが、だから何だというのだ?
 
 そういえば最近、欧州の歌劇場において彼女の名前をあまり見かけなくなっているような気がするが、さもありなんだろう。