それまでオペラは仰々しくて苦手だった。ストーリーの展開や流れが突然中断して歌手が客席側を向き、棒立ちでアリアを歌うオペラ。私はそれを「不自然」「変」と思っていた。だからオペラは敬遠していた。
この偏見を革命的に改めてくれ、オペラ芸術の素晴らしさに開眼させてくれたのが、ばらの騎士である。C・クライバー指揮バイエルン州立歌劇場の映像(LD)だ。(超名盤のウィーン国立歌劇場の映像が世に登場するのはもう少し先の話)
まるで映画のように歌とセリフと物語の進行がスムーズで、優雅なオーケストラの演奏が克明にそれぞれの役の感情を描写して盛り上げる。
もちろん強弱やテンポや音色を変幻自由自在に操るクライバー・マジックにやられたというのもあろう。
だけど、私は心底シュトラウスの音楽に酔った。オペラの官能の世界が突如目の前に開けたのだ。同時に、底なし沼に足を突っ込んだ瞬間でもある。
以前は皆さんと同様に、この曲のハイライト、第3幕の最後の三重唱が一番好きだった。この世で一番美しい音楽だとさえ思った。(もちろん今でもそう思うし、多くの方の賛同を得られると思う。)
次いで第2幕最初のゾフィーとオクタヴィアンの二重唱。
だが、今、一番好きなのは第1幕の終盤の場面だ。有名な元帥夫人のモノローグの後だ。
このオペラの隠れた主役が「時の移ろい」であることは誰でも知っている。
元帥夫人がその「時の移ろい」を感じてメランコリーになっていると、何も知らないオクタヴィアンが再登場する。戸惑うオクタヴィアン。
「ビシェッテ、さっきまでの私の彼女はどこに行ってしまったの?」
「カンカン、何物も留めておくことはできないの。夢のように消えていってしまうの。」
「ああ、あなたにとってもう私は取るに足らないものになってしまったのだ。」
「カンカン、いつかあなたは去っていく。別の人のところへ。その日は来るのよ。」
「そんな日は来ない。来るとしてもそんなことを考えたくもない。」
「今日なの?明日なの?それとも明後日なの?私はただ本当のことを自分に言い聞かせているだけ。」
この両者の悲しい感情のすれ違いに私は涙を抑えることが出来ない。いつも私はここの場面で、時にはじわ~んと、時にはボロボロに泣きながら、美しくも悲しい音楽に身を委ねている。
なぜか?
それは、自分も年を重ねているからだ。
私は男だが、元帥夫人の気持ちが痛いほど分かる。気持ちは若いつもりだが、知らないうちに年を取っているのだ。かつて20代の頃、こんな自分にもあった青春の恋を思い出し、「ああ、あの頃は若かった」と感じるとき、以前は自分も何も知らないオクタヴィアンであったが、今は元帥夫人であり、時が移ろったことを実感するとき、目頭が熱くなってしまうのだ。
ある時、クラシックが好きだという友人と酒を酌み交わしていたら、話題がばらの騎士になった。
その友人が「このオペラって、いろいろあったけど結局若いカップルが最後に結ばれてめでたしめでたしっていう物語でしょ?」って言ったとき、私はそれこそ机を叩いて立ち上がるかの勢いで「それはぜっっっっったいに違う!!!」って口角泡を飛ばして大反論した。
酒の場の話なのに今考えると超バカみたいで恥ずかしいが、例え酔っていたとしても、絶対に譲れなかった。それくらい大切な、私の宝物のオペラなのです。