クラシック、オペラの粋を極める!

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2019/2/13 ムジカエテルナ3

2019年2月13日   ムジカエテルナ   サントリーホール
指揮  テオドール・クルレンツィス
チャイコフスキー   組曲第3番、幻想序曲ロメオとジュリエット、幻想曲フランチェスカ・ダ・リミニ
 
 
強弱の変化やコントラストをこれでもかと強調する特異アプローチで、聴き方によってはかなりデフォルメチックに感じるクルレンツィスの音楽。御本人様に言わせると、「作曲家自身が思い描いたとおりの音楽を、忠実に再現しようとしているだけ」なのだそうだ。
 
最初、この談話を耳にした時、思わず「ぷっ・・」と笑ってしまった。
 
ところが、徐々に「うーん、ひょっとしてそうかもしれないな」と思い直すようになった。
 
特に、P席の正面の場所で指揮者の一挙手一投足を目の当たりにしたこの日の鑑賞後、その思いはより強まった。
 
私も昔、アマオケでチャイコの曲を演奏したことがあり、楽譜の中にピアノ(弱音)記号が4つとか5つとか(ピアニッシッシッシモ??)で指定されていた部分があったのを覚えている。(記憶違いだったらゴメン)
つまり、単にデフォルメしているのではなく、実は楽譜の指定を忠実に順守した結果の賜物なのかもしれない。
 
だが、この指揮者がやっていることは、そうしたスコアの順守だけに留まっていない気がする。
 
そもそも楽譜というのは、作曲家が思い描いた音楽を記録し再現するためのツールである。そこには、一定の規則や指示事項を表している記号が存在する。
音符、拍子、調性、強弱記号といった記号があることで、演奏家は、作曲家が思い描いた音楽に接近しながら、再生を実現している。
「原典主義」と称し、楽譜に忠実であること、楽譜に書いてあるとおりに演奏すること、こうしたアプローチが正義だとする演奏家がいる。それは、楽譜イコール作曲家の意思という認識があるからだ。
 
しかし、である。
そうした記号の力だけで、本当に作曲家が思い描いた音楽を100%再現できるのか。
楽曲には作曲家の感情が込められている場合が多いが、そうした溢れ出る感情の揺れ動きを、記号だけですべて表現できるのか。
 
ひょっとして、クルレンツィスがやっているのは、楽譜と作曲家の感情の間に生じる隙間を埋め合わせする作業ではないだろうか。
その埋め合わせ作業こそ、クルレンツィスが言う「作曲家自身が思い描いたとおりの音楽の忠実な再現」なのではないだろうか。
 
実際、間近で見た彼のタクト、全身の動きは、ニュアンスの表現に最大限の重きを置いている。
きっと、このニュアンスこそ作曲家の感情だと捉えているに違いない。
 
もし、彼の熱血的でオーバーな身振りを見て、過剰なナルシシズムだと受け取ってしまうと、指揮者に対する感想、評価は、一気に別方向にぶっ飛ぶ。
もしかしたら、クルレンツィス自身、そうした危険性を自覚しているんじゃないかと思う。
それでもなお、こうしたやり方こそが絶対に正しいのだという信念を貫いているのだろうと思う。
 
もちろん見た目のパフォーマンスだけでなく、純粋にクルレンツィスの音楽が気に入らない人だっているだろう。公演後のツイッターのつぶやきTLを見たが、結構賛否両論である。
 
でも、私は「それでいい」、「それこそが正しい傾向」だと思う。
だって、音楽って感性で聴くものだ。その感性って、人それぞれじゃないか。
私に言わせれば、100人が100人フルトヴェングラークライバーを絶賛する傾向の方がおかしいし、怪しい。
 
それに、賛否両論も含め、こんなにもクラシックファンの間で話題が沸騰し、盛り上がった来日公演って、近年稀に見るではないか。
会場には多くのクラヲタ、音楽評論家に加え、某指揮者、某ピアニストなどプロ奏者もたくさん見かけた。
その動向に目を離すことができないアーティストが誕生したのだ。
こんなに素晴らしいことはない。こんなに嬉しいことはない。
 
P.S
前半プロの後にアンコール、しかもチャイコのVn協(第三楽章)、コンマスソリストに急遽早変わりだなんて、信じられなーい。前代未聞。すっげー。