指揮 サイモン・ラトル
グライム 織り成された空間
現代音楽が苦手な私には、はっきり言って前半のような曲はいらない。「早く終わんねえかなー」と思いながら聴いていた。20分くらいの作品だったが、めっちゃ長く感じた。
感想は特にありません。感想を語る資格もありません。
「現代音楽って、結局ただの効果音だよな」
おっと、語ってしまった。なんでもありません。
プログラムはマーラー一曲で十分なんだけどな・・。
ラトルのマラ9。
2011年11月のベルリン・フィル来日公演での超絶名演が忘れられない。
同じ指揮者による演奏なのに、オーケストラが違うと、音楽も変わるものだ。
まあでも、そういうものかもしれない。
ベルリン・フィルの操り方とロンドン響の操り方は、きっと違うのだ。
あくまでも私個人の見立てだが、ベルリン・フィルでは、オーケストラの能力と自主性を尊重し、かなり任せていたような気がする。
で、ラトル自身がベルリン・フィルが自主的に出してくる音のうねりを楽しんでいたような気がする。
以前ベルリン・フィルの感想記事で書いた気がするが、ラトルがやっていることと言えば、「動機付けときっかけ作り」なのだ。
ラトルという指揮者は、オーケストラを従わせ、強制させるような人ではないことは知っている。
こうして創り出されたロンドン響とのマラ9。
この作品に漂う死への予感が全然しない。
では明るい生への希望かというとそうではなくて、生に執着して必死にもがいているという感じ。指揮者の「こうするべきじゃないか」という強い引っ張りが、生の執着力を一層鮮明に生み出していた。
これはこれで、マラ9の解釈として立派に成り立っていると思う。
ロンドン響の演奏のレベルとパワーは、ちょっとどのように評価していいかよく分からない。
もちろん上手い。さすがだと思った。
でも、これはロンドン響の能力と演奏水準において、「ふつー」「アベレージ」のような気がする。彼らの実力以上でも以下でもなし。
それでも圧倒的な感興と満足感に浸ることが出来たのは、それは兎にも角にも偉大な作品のおかげなのだ。
それに尽きると思う。