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2016/3/5 新国立 イェヌーファ

ヤナーチェク  イェヌーファ
指揮  トマーシュ・ハヌス
演出  クリストフ・ロイ
ハンナ・シュヴァルツ(ブリヤ家の女主人)、ヴィル・ハルトマン(ラツァ)、ジャンルカ・ザンピエーリ(シュテヴァ)、ジェニファー・ラーモア(コステルニチカ)、ミヒャエラ・カウネ(イェヌーファ)   他
 
 
新国立劇場がオープンしてから20年弱。初めてヤナーチェク作品が上演された。
遅ぇ。遅すぎる。
この劇場がいかに保守的で初物に及び腰なのかがよく分かる。恐らく「カーチャ・カバノヴァ」とか「死者の家より」が上演されることは永遠にないだろう。
で、この劇場のスタッフやら関係者がいかにも思い付きそうな発想がこれ。
「馴染みのない作品を上演する時は、物語や音楽の本質を多くの人に理解してもらうためにオーソドックスな演出で。」
 
ところがなんと、選んできたのは現代演出の急先鋒の一人クリストフ・ロイによるプロダクション。これには少々驚いた。諸刃の剣、一種の賭けみたいなものだ。
 
ところが、これが大当たり。どうやら吉へと転がった。多くのお客さんはロイお得意の人間ドラマを大いに楽しんだ様子。終演後は会場から沢山のブラヴォーが飛んだ。
同時に、ヤナーチェクの音楽にストレートに共感できた人も少なくなかっただろう。
そう、お客さんは分かるのだ。何も親しみやすいヴェルディモーツァルトプッチーニじゃなくても、良い音楽には素直に感動できるのだ。だから及び腰になる必要なんてないんだよ。本当はね。
 
さて、そのクリストフ・ロイの演出。
舞台から推測するまでもなく、本人がプログラムの中でネタばらししているとおり、物語は「やってしまった」コステルニチカが留置場(あるいは取調室)の中で回想するという形で進行する。ロイは、物語の鍵を握る人物として、イェヌーファではなくコステルニチカにターゲットを絞ったのだ。
 
これは、よく考えれば至極真っ当。イェヌーファにもラツァにも揺れ動く心情や葛藤は存在するが、その激動さにおいてコステルニチカには及ばない。
殺人まで犯してしまうその要因は、果たしてイェヌーファのためを思ってのことなのか、それとも「本当はお前より自分のことを愛していたんだ」と告白するとおり、世間体を気にし、人から後ろ指を指される自分が嫌だったからのか。
机と椅子以外何もない個室の中でコステルニチカが一人行う「反省」。この反省こそが物語の中心的テーマであると、インタビューでロイは述べている。
 
同時にロイは観ている人にも考えさせることを要求する。
「なぜ彼女はやってしまったのか?」
ターゲットをコステルニチカに絞ることで、観ている人にもコステルニチカの心の奥底を探って欲しい。ロイはそう願っているのだ。もちろんその答えは、観た人一人ひとりの受け取り方で千差万別だったとしても、まったく構わない。
 
 
音楽面について。
海外から招聘した主役の歌手たちも皆素晴らしかったが、ヤナーチェクの音楽の素晴らしさをダイレクトに観客に伝えることに成功したのが、指揮者のハヌスだ。ヤナーチェクスペシャリストであり、第一人者。ヤナーチェクを上演する世界中の劇場で、彼のタクトが必要とされているわけであるが、大いに納得である。
おそらく、一番納得しているのは、東京交響楽団の奏者ではないかと思う。オーケストラの音から「なるほど、そういうことか」という「すっきり」が聞こえるのである。指揮者がヤナーチェクのことを知り尽くしているおかげで、音楽のすべてが理路整然だったし、必然と思えた。
 
歌手の中では、ラーモアが演技も含めてやっぱりさすがの貫禄。名歌手だもんなあ。
ラツァのハルトマンは、声に張りがあってよく伸びる。タイトルロールのカウネは、声に温かみがあって優しいが、第二幕のモノローグは強くそして迫真的だった。苦しい心情を凛と歌い上げていて感動的だった。