クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

イェヌーファ

オペラを聴くようになってからヤナーチェクのオペラ作品にたどり着くまでは、少々時間がかかった。それ以前から知っていた管弦楽作品「シンフォニエッタ」や「タラス・ブーリバ」、これらが個人的にどうも好きではなかったのである。だから、二の足を踏んでいた。
 
きっかけは海外遠征だった。2003年9月、ウィーン国立歌劇場音楽監督になった小澤征爾が現地でイェヌーファを振ることになり、これを鑑賞する機会が訪れた。
予習のためにCDを購入して聴いてみると、これがまた実に素晴らしい音楽!たちまち魅せられた。それまでの遅れを取り戻すかのように、どんどんと他の作品にもレパートリーを広げていった。
 
こうしてイェヌーファからスタートし、今はほぼすべてのオペラ作品を手中に収めているわけだが、総合的に見て、やっぱり私はイェヌーファが一番素晴らしいと思う。
ラストシーンは涙が出るくらい感動的で、以前はこのラストシーンが物語全体の中のクライマックスだと思っていた。だが、最近はイェヌーファやコステルニチカの揺れ動く心情とその激白こそが核心であり肝なのだと分かってきた。自分なりに作品への理解が徐々に深まっているような気がする。
 
ところで、一ヶ月くらい前だろうか、とある評論家先生が音楽雑誌の記事の中で、このオペラについて「これ以上のハッピーエンドがあろうか!?」と書いていたのを見つけた。
思わず我が目を疑った。「はぁ?」ってな感じだ。
ハッピーエンドとは、文字通り「幸せな結末」である。
「亡くなった我が子が、実は人によって殺されていた。しかも殺したのは、自分の育ての親だった・・・。」
こうした恐ろしい事実を、イェヌーファはいきなり突き付けられたのだ。しかも結婚式の当日に。身も心もボロボロの状態に陥ったはずである。実際、ラツァに対して「私の哀れな人生にあなたを付き合わせることなどできない。さようなら。」と、まるで自らの人生が終わったかのような胸中を述べている。
いくらラツァが大きな愛を捧げてくれたとしても、どうして「ハッピー」だと言えるのか。
 
私自身が考えるこの物語の結末。
それは「愛によって再び立ち上がり、厳しい試練を乗り越えようとする夫婦二人へのエール」ではないだろうか。
 
ただし、行く末は示されていないし、幸せにたどり着くかどうかも分からない。
だが、そこに確かに存在する物がある。「希望」である。
おそらく、希望を抱いて頑張れということなんだと思う。ヤナーチェクの音楽がラストの場面でガラリと変容し、圧倒的な高揚を持って終わるのは、希望の先に明るい未来の兆しがあることを作曲家が音楽で明示しているのだ。
 
以上の考えに基づけば、今上演中の新国立で演出家C・ロイが示した結末には、少々納得がいかない。
ご覧になった方は気が付いたと思うが、イェヌーファとラツァは二人で出を取り合いながら歩みを開始するが、その行き先である背景は、白から黒へと移っていくのである。つまり、二人が向かっていった先は「闇」なのだ。
 
もちろん、演出上の一つの解釈としてありだろう。だが、いかんせんそういう音楽になっていない。ヤナーチェクはそのように書いていない。音楽と演出に乖離が生じると、せっかく演出家が優れた解釈を講じても、むなしい結果になる。
 
もっともロイ自身が「クライマックスの音楽は、自分にはどう聴いても悲観を帯びていて、お先真っ暗」と主張するのであれば、もうこちらは完全にお手上げだ。そこらへん、是非直接問うてみたいところである。