クラシック、オペラの粋を極める!

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思い出の「こうもり」

 先日マルク・ミンコウスキーの来日公演を聴いたところだが、良い機会なので、本日は初めてミンコを体験した時の公演について書こうと思う。
 ただし、それは「ミンコについての思い出、感想」にはならない。(少しは触れようとは思うが。)

 ミンコウスキーが指揮をしたその公演とは、2001年8月ザルツブルク音楽祭

 熱心なクラシックファンなら「2001年ザルツブルク音楽祭」「ミンコフスキ」というキーワードで、「ああ、あの公演ね」と分かる人がいるかもしれない。それは、ザルツブルク音楽祭始まって以来の大スキャンダルとなった衝撃のプロダクションだったのだ!


2001年8月25日 ザルツブルク音楽祭  フェルゼンライトシューレ劇場
J・シュトラウス  こうもり
指揮  マルク・ミンコフスキ
管弦楽  ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
演出  ハンス・ノイエンフェルス
クリストフ・ホムバーガー(アイゼンシュタイン)、エリズビエータ・スミツカ(ロザリンデ)、マティアス・クリンク(アルフレード)、オラフ・ベーア(ファルケ)、マリン・ハルテリウス(アデーレ)  他


 「過激」という言葉でもまだ甘い、吐き気を催す悪夢の公演だった。

 最初は何事かと思った。舞台で起こっている事態が把握できなかった。これは何かの間違いだ、と思った。次第に、間違いではなくて確信的に作られた物だと分かってくると、怒りが込み上げてきた。

 オペラを観るということは、(新しい創作品を除けば)再生作業の鑑賞であり、いわば決まり事を見ることであって、解釈によって変化することはあってもオリジナルの音楽や脚本自体がいじられ、ねじ曲げられることはあってはならないはずである。

 演出家:ノイエンフェルスはそのタブーを敢然とブチ破った。

 元々ないセリフが飛び交い、劇の進行を容赦なく遮断して寸劇を始める。元々いない人物が登場し混乱させる。全く関係ない音楽が挿入される。
 主要人物のキャラクターは全てオリジナル設定を変えられている。しかもとんでもない衣装を着ているので、誰だかさえも分からない。
 視覚的にも、麻薬常習、酒池肉林パーティー、暴力、殺人、奇声や叫び声、乱痴気騒ぎ、性的描写がこれでもかとばかり続き、目を背きたくなる物ばかり。

 観客の怒り様と言ったら、それはそれは凄かった。
 まず、休憩が終わって後半が始まる際、席に戻らなかった客が少なからずいた。こんな酷い物を見続けられないということで帰宅したのだろう。
 そして、終演後のブーイング。いやブーイングではない。怒号だ。「ブー」ではなく「ふざけんなてめー!」「金返せ!」「恥を知れ!」などの言葉(と思われる)が飛び交っている。ステージにプログラム誌が投げつけられた。私の横で蝶ネクタイをした紳士が、中指突き立てて怒っている。

 ノイエンフェルスが行ったことは、解釈ではない。ぶっ壊しただけだ。ぶっ壊すことによって風刺と問題提起を行ったのだ。矛先は作品かもしれないし、オペラ芸術に対してかもしれないし、金持ちの観客達かもしれない。あるいは現代社会そのものかもしれない。

 だが観客はそんな独善的愚行に付き合うために金を払って劇場に来たのではない。だったら、勝手に創作品を作るなり自費制作するなりしてほしい。
 
 そんな嵐のカーテンコールの中、音楽を担ったミンコフスキに対しては怒りの矛先が向かずに暖かい拍手で迎えられた。
 ミンコは、ステージ上で繰り広げる醜い騒動とは全く無関係であるかのように、自分が考えるJシュトラウスの音楽をもっぱら追究していた。多分、どんな演出になってもミンコの音楽は変わらなかったのではないだろうか。

 作品をぶっ壊し、スキャンダルを作って話題を独占し、知名度を上げる-こういう困った演出家が増えてきた。そのきっかけとなった先例がこの「こうもり」だったのではないかと思う。
 今や実験劇場になってしまった感のあるバイロイト音楽祭でさえノイエンフェルスはずっと避けられてきたが、ついに来年のローエングリン新演出を担当することになった。
 いったいどうなってしまうのであろうか??恐ろしい。