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2021/12/11 日本フィル

2021年12月11日  日本フィルハーモニー交響楽団   サントリーホール
指揮  カーチュン・ウォン
オッタビアーノ・クリストーフォリ(トランペット)
アルチュニアン  トランペット協奏曲
マーラー  交響曲第5番


言わずと知れたプロオーケストラの勝負曲、マーラー交響曲第5番。
特に、これまで海外オケが来日すると、それこそ競うかのようにこの曲やマラ1などを採り上げ、演奏した。外来公演が時期もメイン曲も重なる、なんてことも起こり、時に食傷気味になることもあった。
そんな時は「いやいや、分散してやってくれよ」とぼやいたり、「もっとあるでしょうよ、曲。他にもよ」などと突っ込んだり・・・。

ところが、このご時世ときたもんだ。
外来オケはすっかりご無沙汰。ステージ上が密になるマーラーの演奏もご無沙汰。
そうなると今度は途端に聴きたくなってくるのが、リスナーの悲しい性であり、マーラー特有の中毒性である。

指揮者カーチュン・ウォンは、マーラー国際指揮者コンクールで優勝したという実績の持ち主だという。
実を言えば、そのコンクール自体私はよく知らないのだが、それはまあいいとして、この指揮者、とても評判がいいのである。
ならば聴いてみよう、マラ5。期待を抱いて会場に足を運んだ。

驚いた! なるほど! この指揮者、確かに只者じゃないぞ!

「スコアが頭の中に完全に叩き込まれている」というのは、もしかしたら指揮者からすれば当然のことなのかもしれない。
しかし、マーラーというのはとにかく音符が一杯詰まっている。作曲家自身による指示事項も多く、偏執的でもあり、それらを完ぺきに掌握するのは、たとえプロであっても大変なはずだ。
実は、複雑なスコアを整理整頓し、方向性を示しながら音を並べるだけでも、マーラー作品の演奏としては意外と成立してしまう。実際、それで良しとする指揮者も決して少なくない。
観客だって、「名演だ!」なんてほざいておきながら、本当は演奏や指揮者の解釈じゃなくて曲に感動してる、なんてこともあるからね(笑)。

いずれにしても、カーチュン・ウォンは、そこに留まらない。
演奏の主導権を指揮者が握り、強調したい旋律や響きを、まるでえぐり取るかのように引き出し、作品に潜む情念をむき出しにする。それをエネルギッシュなタクトでグイグイと引っ張り、コントロールしている。
「指揮者が主導権を握る」というのは、実は何気なくすごいことで、マーラーの場合、作品そのものに強烈なアイデンティティがあって、指揮者が勝手なことをするのを許ない。作曲家のエゴイスティックの塊とも言える作品、それがマーラーなのである。

カーチュン・ウォンは、実に清々しくそれを振り切ってしまった。

その勢いと潔さは、100%オーケストラに伝播した。
日本フィルがこれほどまでに高度な合奏能力を披露したのは、いったいいつ以来なのか、というくらいの稀にみる卓越した演奏。特にホルンの第一奏者と彼がリードするホルン群の何と勇ましいこと!

なんだか凄い体験をした気分。今後もカーチュン・ウォンの動向に目が離せなくなりそうだ。
マーラーに関しては、これから日本フィルとチクルス演奏をしていくそうだから、楽しみにしよう。


アルチュニアンのトランペット協奏曲は、私もかつてラッパ小僧だったので、非常に馴染みがある曲。
右手の指がピストン操作の真似で自然に動いてしまうくらい懐かしいが、何を隠そう、この日印象深かったのは、オーケストラのエキゾチックな伴奏音楽であった。ハチャトゥリアンと相通じる民族的な響き。
プログラム・ノートを見て初めて知ったのだが、作曲家アルチュニアンが亡くなったのは2012年とのこと。なんと、ほんの9年前ではないか。同時代を生きていたんだね。驚きました。

演奏したクリストーフォリは、ソロの後、マーラーのステージにも乗って大活躍。
なんでイタリア人奏者が日本フィルにいるのかと思ったら、彼、兵庫芸術文化センター管弦楽団のアカデミー出身なんだってさ。なるほど、そういうことだったんだね。先日、PAC管を聴き、たくさんの外国人がステージに乗っていたのを思い出した。