クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/8/29 東京シティ・フィル

2020年8月29日   東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団   東京オペラシティコンサートホール
指揮  高関健
山根一仁(ヴァイオリン)
コープランド  市民のためファンファーレ
ショスタコーヴィチ  ヴァイオリン協奏曲第1番
R・シュトラウス  13の管楽器のためのセレナード、メタモルフォーゼン


4月に行われる予定だった定期演奏会の代替公演。
当初のプログラムはブラームスのピアノ協奏曲第1番とシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」だったが、コロナの影響で大規模編成作品の演奏が困難となり、変更となった。

だが、それにしても、いい選曲だ。
私は、プログラムがこのように変更になったことで、逆にコンサート行きを決めた。

オーケストラは、大規模編成作品が演奏できなくてどこも苦慮しているが、たいてい古典作品に逃れようとする。
「とりあえず今年はベートーヴェンイヤーだし、ベートーヴェンやっとくか。その意義はあるしな。人気もあるしな」みたいな。

で、どこもみんな同じようなプログラムの公演が並ぶ。

あのねえ。安易なんだよ。
もっと考えろよ。考える手間、探す暇、惜しむなよ。そうすれば、こうしたシティ・フィルのようなプログラムが見つかるんだよ。

プログラムを組んだのはおそらく指揮者の高関さんだと思うが、センスの良さがとにかく光る。

例えば、シュトラウスの二作品の並べ方。
これは、単に演奏者間の密を避けるために、管楽作品と弦楽作品を分けたわけじゃない。
初期作品と晩年作品を対比させて、シュトラウスサウンドの構築手法の変遷にまで迫ろうとしているのだ。

つまり、「プログラムを組む」というのは、こういうことなんですよ。


ソロの山根くん。天才少年として彗星のごとく楽壇に登場してから、もう随分と経った。
技術がしっかりしていて、特に早いパッセージの巧さ、鮮やかさは、息を呑むくらい。最終楽章の一気呵成の勢いは本当に見事だ。

一方で、第1楽章のノクターンは物足りない。音色や表現にもう少し深みがほしい。
感情を込めるのか、それとも無表情を貫くのか。
静けさなのか、静けさを装った顔なのか。
要するに、このノクターンショスタコーヴィチはどのような想いを馳せたのか。
これらの追求と演奏への落とし込みが、中途半端だと感じる。

結局、演奏家の成長、あるいは実力というのは、技術じゃなくて、そういうところなのだと改めて思い知る。


後半のシュトラウスは、まるでそうしたアプローチの仕方を教えてくれるかのように、高関さんの探求と読解が鋭く磨かれた演奏だ。「あー、スコアを読み込んでいるなあ」と思わず頷いてしまう。奥深い。

メタモルフォーゼンは、この作品の演奏の理想郷とも言えるほど、圧巻の絵巻物の仕上がり。
単にポリフォニックの妙を浮かび上がらせるだけでなく、この作品が誕生した時代背景までを透察する。第二次世界大戦直後の虚無感と現在のコロナ禍の閉塞感がクロスオーバーし、胸苦しさを感じるほどだ。

残念ながら一つだけ個人的に好みじゃなかった部分があって、メタモルフォーゼン終結部で現れるコントラバスエロイカ第2楽章の葬送のテーマ。これを思い切り強調させていた。
なんだか「はい、皆さんいいですか、ベートーヴェンの作品のテーマが出てきますよ。ほら、これですよー、わかりますかー」と先生から教わっているみたい。ていうか、その意図は間違いなくあったはずだ。

いいよ、別にそんなことしなくても。押し付けがましい。
聞こえた、分かったという人がいてもいいし、聞こえなくても、分からなくても、何の問題もない。

音楽は感じる物。捉え方は聴き手の自由に委ねられるべきなのだ。