クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2020/2/9 ヴォツェック

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2020年2月9日  チューリッヒ歌劇場
ベルク  ヴォツェック
指揮  ハルトムート・ヘンヒェン
演出  アンドレアス・ホモキ
クリスティアン・ゲアハーヘル(ヴォツェック)、ダニエル・ブレンナ(鼓手長)、イアイン・ミルネ(大尉)、イェンス・ラルセン(医者)、グン・ブリット・バークミン(マリー)、イレーネ・フリードリ(マルグリート)   他


午後2時開演の「フィデリオ」に続き、午後8時半開演のダブルヘッダー
別会場を使用せず、同一の劇場でシーズンを通して定期的に二本立て上演を行っているのは、実は世界的に希少なのである。私のような海外に出向くオペラマニアにとっては、一石二鳥のありがたい劇場だ。
だからといって、調子づいて連続鑑賞すると、それはそれでさすがに疲れるもの。(もう若くないしさ。)
ラッキーなことに、今回の「フィデリオ」と「ヴォツェック」は作品が長大ではなく、しかも休憩なしの一幕物上演だったため、全然疲れず、楽勝だった。
(ちなみに、前日の「トーリードのイフィジェニー」も、休憩なしの一幕物であった。)

これら3つの公演に共通していたことがもう一つあって、3つとも同じ演出家であった。

ホモキはこの劇場のインテンダントを務めているため、ここで彼の演出版が多くなるのは、いわば必然。こうして連続して観ると、3つの中に彼の特徴の共通性を見つけることも出来るし、作品ごとの独自性を見つけることも出来る。これはなかなか興味深いことであった。

このホモキ版「ヴォツェック」は映像収録されていて、DVDなどで視聴することが出来る。ご覧になった方もいらっしゃるだろう。
舞台にはパネルの木枠のようなものが設定され、その枠の中で登場人物が演技を行う。枠は、時に開閉して劇場の幕のような役割を果たし、時に多層的に重ねて複合的な構造の舞台を見せる。(基本的に平面的だが、枠を多層的に重ねる時、奥行き感が広がる。)

この枠の意味するところ、あるいはどのように捉えるかについては、観る人によって解釈が異なるかもしれない。
もちろん、そうした観る側の受け取り方の多様性、想像の広がりというのは、演出家の望むところでもあろう。

私には、紙芝居、あるいはマリオネット劇場の舞台のように見える。
登場人物の衣装や化粧も、非常にけばけばしい。デフォルメを強調し、紙芝居劇や人形劇にありがちな戯画的要素を盛り込んでいるのだ。

ヴォツェック」の上演では、現実感が漂うシリアス性を打ち出すような演出がある。
一方で、ホモキはその逆、荒唐無稽、物語の虚構性に目を向け、的を絞っている。
そのどちらにも、切り口から生じる効果があり、ホモキの狙いは成功していると思った。

ヘンヒェンの指揮による「ヴォツェック」を鑑賞するのは、これで3回目だ。日本でも、2009年11月新国立劇場で彼は振っている。
つまり、あっちこっちで振っているのだろう。相当にお手の物と見受ける。
実際、彼の音楽を聴いて、ベルクらしい複雑さや難解さが全然感じられない。視界良好、整然とした分かりやすいヴォツェック。これは、過去の感想と共通する。

出演歌手は皆それぞれの特異なキャラクターを、体を張って演じ、「荒唐無稽」「虚構」という演出の要請に見事に応えている。
特に、マリー役のバークミンが熱演。歌唱もダイナミックで、聴衆に強烈なインパクトを刻み込む。
対照的にヴォツェック役のゲアハーヘルは、ひたすら丁寧かつ真摯な歌唱に徹している印象。意図的なのかどうかはわからないが、そうした歌い方が純朴さを醸し出し、ヴォツェックという社会的弱者の悲劇性をいっそう増幅させることに結び付いている。そういう意味で、これ以上ない適役だ。

ゲアハーヘルは、本当にいい歌手。日本ではドイツ・リート歌いの名手として名高い一方、オペラ公演では来日して舞台に立ったことがないのではないか。(自分の記憶にないだけなので、あったらごめん。)
C・バルトリもそうだが、日本ではなかなかオペラで聴けない歌手を劇場で観ることができるのも、海外ならでは。わざわざ出かけていく価値が、そこにあるわけだ。

ということで、やっぱ海外に行かなくっちゃ。

時々困難にぶち当たるんだけどね(笑)。