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2009/11/21 新国立 ヴォツェック

2009年11月21日 新国立劇場
アルバン・ベルク  ヴォツェック
指揮  ハルトムート・ヘンヒェン
演出  アンドレアス・クリーゲンブルク
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
トーマス・ヨハネス・マイヤー(ヴォツェック)、エンドリック・ヴォトリッヒ(鼓手長)、高野二郎(アンドレス)、フォルカー・フォーゲル(大尉)、妻屋秀和(医者)、ウルセラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン(マリー)、山下牧子(マルグレート)  他


 示唆に富んでいて思わず「うーーん!」と唸る優れた演出だ。私は、作品の可能性を更に引き延ばし、なおかつこちらの知的好奇心をくすぐってくれる今回のような演出が大好きである。

 床に張った水。
 これはマリーが殺され、ヴォツェックが溺れる場所という原作の設定ポイントである同時に、社会の底辺をも表している。地底牢、井戸の底のようなじめじめした場所。そこに普通の社会生活から脱落してしまった人間がうごめいている。彼らは職を求める失業者であるが、奈落の底に突き落とされた状態では、もはや這い上がることさえもできない。餌に群がり、施しに群がりながら、搾取する側の人間を肩で背負わされている。ヴォツェックという作品の根幹を成す「貧困」を、「直視せよ」とばかりに見ている側に突きつける。

 ヴォツェック、マリーと子供の3人を除くその他の登場人物と衆人は、みなあたかもゾンビのような格好であるが、人体実験により精神錯乱寸前のヴォツェックからすると、彼らは‘化け物’(人間性を失っているので、人間ではない)にしか見えないということであろう。(P・シェロー演出もたしかこういうアプローチだったような気がする)
 ヴォツェックは医者から人体実験を強いられるが、ヴォツェックだけでなくその他の人間も同様に、階級社会システムからの抑圧実験によって人間性を剥ぎ取らている-私はそのようにも読み取った。
 
「子供が、母マリーよりも父親との結びつきが強く、お互い深い愛情で支え合っている」
「貧困とそこにはらむ暴力の問題は解決の糸口が見つからずに次の世代にも引き継がれる」
 これらの解釈も目からウロコで、実に新鮮だった。

 ハルトムート・ヘンヒェンが築いたベルクの音楽は非常に明快。
 私は9月にパリでヘンヒェンが指揮するヴォツェックを観ているが、その鑑賞記で「ベルクの複雑に絡み合った難解な音楽を丁寧に紐解いてみた結果、見事に整理され、驚くほど分かり易くなって聞こえてきた。まるで数学の難問を理路整然と解析し、丁寧に解説してくれる教師のようだ。」と書いた。今回も全く同じ印象だ。
 東京フィルは、一部混乱を来したり管楽器のミスがあったりしたが、まあそれはよくあること(笑)、全体としては難解な音楽に対して健闘していたと思う。

 歌手では主役のトーマス・ヨハネス・マイヤーが素晴らしく、その他の役の方々のレベルも高かった。

 本当に秀逸なプロダクション。「大変良くできました」花マルを進呈します。さすがバイエルン州立歌劇場との共同作品ですね。