クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

現代演出、読替演出に思うこと

現代演出、読替演出の問題については、これまでも何度となくこのブログで書いてきているのだが、今回また改めて。
 
リヒャルト・ワーグナーの曾孫にして現バイロイト音楽祭総監督カタリーナ・ワーグナーが演出した新国立劇場フィデリオは、聴衆がベートーヴェン作品に抱くイメージや上演に求める期待を、激しくぶち壊すものだったらしい。
情報によれば、カーテンコールで演出チームが登場すると、近年稀に見るほどの凄まじいブーイングが飛び交ったそうである。
 
やっぱりな。まあそうなんだろうな。
カタリーナ女史を招いた時点で、そういう演出になることは十分に予想できた。私に言わせれば、「そんなの最初から分っていたことじゃんか!」だ。
 
だが、日本の聴衆、オペラ愛好家は、過激な読替演出に慣れていないし、最初から抵抗感を持っている。オーソドックスな演出を望む人が圧倒的に多い。これが現状だ。

彼ら愛好家の真意としては、おそらく次のようなものだろう。
「オペラ=(イコール)音楽であり、読替演出は音楽や脚本とベーシックの部分で衝突する。」
「読替演出は、元々その作品を手掛けた作曲家の意志とはおよそかけ離れたもので、それは作曲家に対する冒涜であり、背信行為である。」
 
これに対し、読替えに積極的な演出家の主張はこうだ。
「舞台を製作する人も鑑賞する人も現代人である以上、現代においてその作品を上演する意味、意義が問われる。演出家は、作品を現代の視点で見つめた時、そこに何が浮かび上がるのかを探り、聴衆にメッセージを伝えなければならない。メッセージを受け取った聴衆は、一人一人それをどう捉えるか、自問自答してほしい。人々が劇場に足を運び、上演を鑑賞するということは、要するにそういうことなのだ。」
 
つまり、考え方、認識、目指している所が決定的に違うのである。
おそらく、多くの現代演出家にとって、オペラ=(イコール)音楽ではない。
彼らにとってオペラとは、総合芸術であり、創造芸術なのだ。創造、すなわち「新たに生まれる作品」「蘇る作品」なのだ。
 
このように双方の定義が違うのだから、多くのファンが望んでいる物と違うのは当たり前だし、強烈なブーイングを浴びせたところで、彼らが「しまった、まずかった、失敗だった」などと思うことはない。ブーイングという拒絶反応は、無駄な抵抗だ。
 
さて。
ここで、どちらが正しいのかという是非を論じるつもりはない。
ていうか、私に言わせれば、どちらにも理がある。よって、水掛け論になるだけで意味がない。
 
と言いつつ、個人的に私は、演出家が現代の視点で見つめ、そこに何が浮かび上がるのかを探り、聴衆にメッセージを送るのであれば、それをしかと受け取り、自分なりにどう捉えるのかを感じたいし、考えたいと思う。そういう意味では、演出家の言い分を是として受け止めている部分がある。
 
ただし、条件がある。
演出家が現代の視点で見つめ、そこに何が浮かび上がるかを「真剣に」探っているかどうかということ。
それから、作品に対し、特に音楽に対し、「敬意」を払っているかということ。音楽がそこの場面でどのように鳴っているか、ちゃんと注意しているかということ。
 
作品に真剣に向き合い、スコアを勉強し、作曲された当時の社会情勢、時代背景、その後の歴史等を検証した結果、「作品の中に、こういうメッセージが潜んでいると強く感じる」として、あくまでも結論、結果論として読替えするのは、良いと思う。ありだと思う。
 
厄介なのは、最初から読替えありきのひらめき、思い付き、そしてこじつけによって演出しているとしか思えない人が少なくないことだ。
 
先日、NHK-BSで放映された2017年のエクサン・プロヴァンス音楽祭「カルメン」(チェルニャコフ演出)なんか、いかにもそんな感じがした。
(と言いつつ、実は結構面白かったんだけどね。)
 
今回の新国立のフィデリオはこれから観る予定だが、はたしてカタリーナさんはどっちなのだろうか。
 
なんか、後者のような気がしないでもないが・・。