2016年12月21日 ボローニャ市立歌劇場
マスネ ウェルテル
指揮 ミケーレ・マリオッティ
演出 ロゼッタ・クッキ
注目がフローレスであることには、いささかの異論もない。だが、スター歌手の登場をただ喜んでいるだけでは、自分としては身も蓋もない。ここはウェルテルという作品がどのように上演されたかに着目したい。それならばまず、指揮者マリオッティについて語らねばならない。
もともとこの公演における私の期待の何割かは指揮者にあった。ボローニャに行くのなら、マリオッティを聴くべし。客演指揮者じゃダメだ。
日本ではややミーハーな女性評論家さんらが、バッティストーニ、ルスティオーニと並んで、若手三羽烏扱いする。だが私の評価は違う。同列にしてくれるな。マリオッティが頭一つ抜けている。
ほとばしる情熱の輝きが眩いのは、三人に共通。歌手への寄り添い方が絶妙なのも、皆そう。
そんな中、マリオッティが一段優れている点は、鳴っているすべての音を嗅ぎ取る情報収集能力と、それを瞬時にコントロールする手捌きの巧妙さだ。
アンテナは常に全方位。感度が良く、処理スピードが早い。耳が良く、頭の回転が早いのだろうなと感じる。天才というよりは秀才。
よって音楽は理路整然、切れ味抜群。出来上がりは性能に優れ、高品質。実にクールだ。
ウェルテルのようなメロドラマなら、物語に特化し、美しいメロディを追って、感情移入に全力を注ぐ音楽表現が常套だろう。バッティストーニならそうすると思う。歌をメインにし、歌手と一緒に音楽を導けば、それだけで公演は成功しそうである。
だが、マリオッティの音楽は少々違う。
スコアの音符を総動員。オーケストラ各パートを的確に鳴らすことに余念がない。すべての音符を大切に引き出している。
こうした作業が音楽の構成力を半端なく大きくさせる。ドラマを動かしているのは、むしろ伴奏のオーケストラかもしれない。そう思わずにはいられないタクトである。
イタリア人なのでオペラの世界に軸足を置いているが、彼の才能からすれば、本当はもっとオーケストラコンサートを振るべきじゃないかと個人的に思う。
さてと、お待たせフローレスである。
ロッシーニなどの得意分野から脱皮し、新たな領域に突入かと思いきや、意外とそうでもない。移行を模索している様子も、歌い方を変えている様子も、ない。あくまでも聞こえてくるのは、我々が知っているあのフローレスだ。
演目の系統が変わっても、フレンチになっても、驚異のハイトーンや超絶のアジリタがなくても、フローレスはフローレス。アプローチはいつもどおり。曲芸師に扮しなくても、声は依然として輝かしい。強くて張りがあり、泰然として微動だにしない。天性に恵まれた歌声は毎度のことながら圧巻で、聴いているこちらはビリビリと痺れる。
ひょっとすると、変化の必要がないのかもしれない。フローレスそのものが確立された一つの価値になっているのだ。
彼はそうした絶対的な位置に到達しているのだと思う。唯一無二、孤高の存在。
そんなフローレスに、私は神の威力を感じてしまう。
と同時に、ぞっとするような畏怖さえ覚えてしまう。
名アリア「春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか」では、万雷の拍手と地鳴りのような足踏みが止まず、アンコールとなったことは既に記事に書いた。この瞬間、多くの聴衆は血潮を熱くしたことだろう。
だが私は、まるで凍ったかのように、金縛りにあったかのように、体が硬直した。こういうインパクトを与えてくれる歌手は、今や世界でたった一人しかいない。(かつてはもっといたのだが)
ただし、大絶賛、嵐のようなブラヴォーコールに混じって、いくつかのブーが飛んだことも併せて報告しておく。
おそらくブーを飛ばした輩は、フレンチなのに、マスネなのに、あくまでフローレス流を貫くそのスタイルに違和感を持ったのかもしれない。(だからと言って、ブーを飛ばすレベルでは決してないのだが。)
実は突っ込みどころはもう一つあって、何を隠そう彼のフランス語の発音はちょっとイマイチである。
まあ、そういうところは神の申し子ではなく、人間フローレスを感じさせてくれて、逆にホッとしなくもない。
シャルロッテを歌ったレナードも素晴らしかった。感情をこめた歌唱、美しい立ち振る舞い、魅惑的な表情。すべてに惹きつけられた。
彼女を聴いたのは初めてだ。聴けて良かった。また一人、一流アーティストを体験することが出来た。
演出もグッド。
ウェルテルの憧れは、シャルロッテという女性ではなく、「愛に満ち溢れた温かい家庭」だったいうのがミソ。
理想の原点は、自らの幼少時代にあった。父がいて母がいる。夫婦がお互いを慈しみ、愛し合っている。子供である自分にもその両親から惜しみなく愛情が注がれている。大人になったウェルテルは、あの頃のような幸せをどうしても手に入れたかったのだ。
婚約者のいる女性にふられて絶望して自殺、みたいな単純な話ではない。ウェルテルの衝動の原因に迫ったという意味で、素晴らしい演出だったと高く評価したい。