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2019/3/2 ライプツィヒ歌劇場(香港芸術祭)

2019年3月2日   ライプツィヒ歌劇場(香港芸術祭)   香港文化センター
指揮  ウルフ・シルマー
演出  カリスト・ビエイト
ダニエル・フランク(タンホイザー)、エリーザベト・ストリード(エリーザベト)、カトリン・ゲーリング(ヴェーヌス)、マルクス・アイヒェ(ヴォルフラム)、パトリック・フォーゲル(ワルター)、アンテ・ジェルクニカ(ヘルマン)   他
 
 
1月にライプツィヒに行ったばかりなので、なんとも感慨深い。
ヴェーヌス役のK・ゲーリングは、その時に観たばらの騎士で元帥夫人だったし、ワルターのP・フォーゲルは、同じくばらのヴァルザッキだった。
 
本プロダクションは、フランダース・オペラ、ヴェネチアフェニーチェ劇場との共同制作。
元々は、あのカテリーナ・ワーグナーが演出予定だったらしい。女史のキャンセル降板により、急遽これらのCo-proに加わって制作したようだ。
当初がK・ワーグナーで、代わりもビエイト。いずれも挑発的で過激な演出を厭わないお騒がせ演出家たち。
ライプツィヒ歌劇場は、どうやらタンホイザーで少々冒険したかったようだ。その心意気や潔い。
 
そのビエイトの演出について。
当然のことながら、オーソドックスではない。(オーソドックスなんて絶対にあり得ない)
舞台には、様々な仕掛けが満載。「なるほど、そうきたか」と唸るものもあれば、意味不明のものもある。アイデアは満ち溢れているが、そのすべてを理解することは出来ない。
また、そうしたアイデアが、全体を通して一貫したアプローチやポイント、様式に基づいているかといえば、そうとも限らず、どちらかと言えばおもちゃ箱をひっくり返したような感じだ。
 
第一幕の舞台設定は、非常に印象的である。
幕が開くと、そこは森。序曲演奏の間、ヴェーヌスは木々の間を走り回り、飛び回っている。
最初は何をやっているのか全然分からなかったが、もしかしたらヴェーヌスはエロスの女神ではなく、森の妖精なのではないかと思った。
その仮設が正しいのなら、森はすなわち「自然」を表しているのだろう。
ならば、タンホイザーのヴェーヌスベルクへの逃避は、単なる堕落ではなく、自然への回帰、原点への憧れであって、人為的な物、習慣、堅苦しい組織社会に背を向けていると解釈することが可能だ。
 
この視点は、非常に聡明だと思う。
 
だが、もしそうならば、ヴェーヌスとは正反対の比較対象とされるエリーザベトは、もっと人為的な物の象徴として表されるべきだが、その観点は希薄、描写は曖昧だ。
むしろ、エリーザベトは、通常なら貞淑で高貴な女性として扱われるべきところ、この演出では常に騎士たちの卑猥な性的対象に扱われ、一緒にダンスを強要されたり、ベタベタ触られたりする。
そこらへんにきっと、演出家が捉えるエリーザベト像や、登場人物の相関図の隠れた意味、何らかの解釈意図があるはずだが、イマイチよく分からない。
 
また、合唱パートが担う貴族たちも、高貴に振る舞う一面と、欲望や性欲を獣のように剥き出しにする一面の両方を見せ、これこそが人間の本性なのだと訴えているかのよう。
しかしこれについても「へー、なるほどー」と思いつつ、なぜビエイトがそのように表現するのか、その解釈の必然性は分からない。
 
それ以外にも色々気付く事はあったが、一つ一つコメントしていったらキリがない。
あえて総括するのであれば、「既成概念へ一石を投じた」ということか。
結局は「角度を変えて見るのがポイント」というのが、ビエイトの主張なのだろう。もちろんこうした流儀は、ビエイトに限らず、現代演出家の一般的傾向である。
 
音楽面について。
全体的に堅実、その一言に尽きる。
これはウルフ・シルマーがリードするピットのオケもそうだし、ソロ歌手たちのアンサンブルや合唱についてもそう。突き抜けたり、外したり、ということが皆無。まとまりがよく、バランスに優れているが、安全運転で物足りない部分もある。
 
もしかしたら、ビエイト演出の綿密な決め事に縛られ、動きの自由度を奪われているデメリットが浮かび上がったのかもしれない。
むしろ、このような演出主導のプロダクションの中で、破綻しないようにシルマーがよく仕上げたということが言えなくもない。
それなら、もっと評価してあげなければいけないな。