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2018/6/2 新国立 フィデリオ

2018年6月2日   新国立劇場
指揮  飯守泰次郎
演出  カタリーナ・ワーグナー
ステファン・グールド(フロレスタン)、リカルダ・メルベート(レオノーレ)、ミヒャエル・クプファー・ラデツキー(ドン・ピツァロ)、妻屋秀和(ロッコ)、石橋栄実(マルツェリーネ)、黒田博(ドン・フェルナンド)、鈴木准(ヤキーノ)   他
 
 
いったい何がいけないんじゃい? ぜーんぜんあり。もっと嫌悪感、吐き気を催すような、でっち上げ演出になるかと思ったが、普通じゃんかよ。全く問題なし。
ていうか、私は大いに気に入った。素晴らしい演出じゃないか。
 
確かに、結末はまさかの展開となる。それは、我々が知っているフィデリオの物語とは別物だ。すなわち作曲家が意図したものではない。故に、現代演出を忌み嫌う人は、「作品に対する冒涜」、「演出家の独りよがり、自己満足」と真っ向否定するのだろう。
 
演出家カタリーナ・ワーグナーは、観ている人に問題を提起している。
「こういう可能性はないだろうか?」
「このように見ることはできないだろうか?」
「こういうことは絶対にないと、本当に言い切れるのか?」と。
そして「もし仮にこうだとしたら、あなたはどう思うか?」と問うている。
もっと言えば、「こうした危うさを孕む複雑な現代社会において、そこに生きている我々が進むべき道、信じるべき道は何なのか、それについて皆が自問してほしい。」と訴えているのだ。
 
すなわち、理想の影に潜む現実を直視せよ、ということなのだ。
 
このフィデリオという作品には、「夫婦の愛」というテーマがある。ベートーヴェンが、この愛の勝利を高らかに讃えているのは間違いない。
だが、この作品にはもう一つのテーマが隠れている。
それは、「巨大な権力が、個の人権や人格を奪ってしまうことの恐ろしさ」である。
カタリーナはこれを見逃さなかった。ハッピーエンド、終わりよければすべて良し、万歳三唱で、こうした危険性を看過すべきではない、うやむやにすべきではないと考えた。
 
それを見つけ出し、掘り出した演出家の着眼点に、私は最大級の敬意を表する。
 
思い起こしてほしい。今、我が国のニュースで何が起こっているのか。
日大アメフト選手の悪質タックル問題。
絶対的権力を持った監督からの指示に、ノーと言えず従わざるを得なかった選手。
実は私は更にもう一つ、この問題に潜む社会の恐ろしさを感じていて、「こいつは悪い奴だ」と決めつけたら、徹底的に貶めるマスコミの執拗さと、それを盲目的に受け入れて同調し、「辞めちまえ!」と大合唱する国民。(森友問題などもまったく同じ。)
 
このように、社会には目をそむけてはいけない問題が存在する。これが現代なのだ。
演出家は、舞台芸術を通じて、「そこを見つめよ!」と言っている。そのように提起することが、演出家の義務だと考えている。
たとえ、強烈なブーイングを見舞われたとしても・・。
 
もしかしたら、巨大な権力に盲従したことで悲劇的結末を辿った歴史を持つドイツ人の宿命だと考えているのかもしれない。
もしそうだとしたら、なぜレジーテアターがドイツで盛んなのかが、今ようやく分かったような気がする・・。
 
いずれにしても、私は演出家を支持する。演出家の勇気を称賛する。
 
K・ワーグナーは、このテーマだけを抽出して、夫婦の愛というテーマをないがしろにしたかと言えば、決してそうではない。
既に鑑賞した多くの人たちが指摘しているとおり、「アイーダ」や「トリスタンとイゾルデ」を彷彿させるかのごとく、「死によって成就する愛」で完結させようとしている。
ここでも、「可能性の肯定」、「幸せの定義、概念は一つではない」という多様性のアプローチがしっかりと効いている。
 
最後に、先日カンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞した是枝裕和監督がインタビューで語った次の話を紹介する。
 
「監督の仕事は、答えを出すことではない。固定観念に揺さぶりを掛けることこそが、自分がやるべきことなのだ。」
 
 
演出の話題だけで長くなってしまった。
音楽について、特に歌手については、多くの人がSNS等で感想を述べている内容に同意だ。
 
新国立劇場について、常日頃「三流」「お子様ランチ」と酷評している私だが、最後にこういう刺激的なプロダクションを用意してくれた飯守泰次郎芸術監督には、お礼とねぎらいの言葉を贈りたい。
私が鑑賞したのは最終日。
もう既にブーイングはすっかり収束してしまい、この日は飯守さんの集大成に、拍手が延々と鳴り止まなかった。