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2018/4/20 読響

2018年4月20日  読売日本交響楽団   サントリーホール
指揮 シルヴァン・カンブルラン
アイヴズ  ニューイングランドの3つの場所
マーラー  交響曲第9番
 
 
盛大な拍手に包まれたカーテンコールを見、SNSなどで演奏を聴いた人たちの絶賛の感想つぶやきを見、少々複雑な気持ちになった。
 
マラ9は、演奏側にとっても、聴衆側にとっても、究極の一品である。この曲を聴くということは、‘体験する’ということであり、もっと大げさに言えば「生き様を見つめる機会」である。
だから私は、この曲を聴く以上は想像を絶する緊迫感に圧倒されたいと思うし、打ちのめされたいと思うし、出来ることなら神の啓示を受けたいとさえ思う。
 
まあそこまでいかなくとも、少なくとも心が震えるような感動にまみれたかった。
だが、その希望は叶わなかった。
そのように大きな感動に震えている人が沢山いたのに、自分がそうならなかったのが、なんだか取り残されたみたいで、残念だった。
 
演奏そのものに不満を覚えたわけではない。読響の演奏は素晴らしかった。
特に第3楽章、第4楽章は壮絶だった。ものすごい力に引っ張られるような気がしたし、その遠心力で、もうどこにでも好きなように放り投げてくれ、ぶっ飛ばしてくれ、って感じだった。
後半の二つの楽章だけなら、もしかしたら心が震えるような感動にまみれることが出来たかもしれない。
 
問題は前半、特に第1楽章だった。
あくまでも私の印象だが、スコアの音を並べ、置きにいっていることに留まっている気がした。音色は淡白で、妙に薄っすらと明るい。
 
カンブルランは、何をやりたかったのだろう。何を目指し、どんなアプローチを試みたのだろう。それが分からない。
 
近年、色々な解釈や流儀、多様性が認められ、これまでにも端正なマラ9、淡々としたマラ9を何度となく聴いた。この作品に潜む「死の予感」を打ち消し、あえて「生への希望」を堂々と打ち出した演奏に、「そういうやり方があったか!?」と驚いたこともある。
 
でも、やっぱり、個人的な思いだが、私はこの曲に関しては、作品に漂う死生観を素直に提示してほしいと思う。
なぜなら、それが作曲家マーラー自身が作品に込めていることだと思うからだ。
 
外来オーケストラがこの曲を演奏するのを聴くと、そうした観念的なものがかなり色濃く表出される。
それは、歴史や教育、思想において、宗教が重要な位置を締める文化を持っているからだと思う。
 
翻って、日本にはそれがない。と言っていい。
 
だからこそ、そうした観念が存在しない日本の文化の中から、指揮者が創出し、導き出し、それを表現してほしい。もしそれができれば、比類なきこと、ことのほか凄いことだと思うのだ。この作品の真実の理解がまた一つ進むと思うのだ。
 
そういったことをカンブルランと読響に求めてはいけなかったのだろうか・・・。