クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

カテリーナ・イズマイロヴァ

先々月、NHK-BSプレミアムシアターにて、モスクワ・ボリショイ劇場の公演ライブ中継による「カテリーナ・イズマイロヴァ」(T・ソヒエフ指揮)が放映された。
この時、ちょうどミュンヘンザルツブルク旅行での観賞が控えていたので、録画だけしておき、後でゆっくり見ようと思っていたが、帰国からすっかり一段落したので、先日これを見ました。
 
当ブログにお越しの方に今さら解説は不要だが、一応書いておくと、カテリーナ・イズマイロヴァは20代半ばの若きショスタコーヴィチが手掛けたオペラ第二作目「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。
初版原典版は、性描写を含む過激な表現や、当時の廃れたモラル、社会体制に巣食う問題等が含まれた原作に対し、怯むことなく大胆に、持てる存分の作曲技法を駆使して完成させた大作だった。
 
ところが、これが俗にいう「プラウダ批判」にさらされてしまう。卑猥であり、荒唐無稽であり、スターリン社会主義に反する、というソ連共産党からの批判。
弾圧によって、作曲家としてどころか下手すると粛清によって命さえ危ぶまれる事態に瀕し、ショスタコーヴィチは過激な表現や描写を修正し、タイトルを変え、改訂版を作った。それが「カテリーナ・イズマイロヴァ」なのだ。
 
その「カテリーナ」を改めて見、音楽を聴いてみた。
上に「過激な表現や描写を修正し」と書いたが、まさにそのとおり。「あっちゃー」ってくらいマイルドに直されてしまっている。
歌詞を穏便な言葉に置き換えているのは、まあ最低限仕方がないとして、刺激的なまでに沸騰している音楽までが生ぬるくなっちゃっているのを耳にすると、聴いているこっちまでが悲しくなる。ショスタコーヴィチの忸怩たる思い、断腸の決断が伝わってくるようだ。
 
幸いなことに、近年の上演傾向は元の「マクベス夫人」の方が圧倒的に多く、「カテリーナ」の上演は稀。不当な圧力に屈し、捻じ曲げられた元作品の名誉は、現代において完全に回復したと言えよう。
 
と、ここでふと思ってしまった。
そんな今、ボリショイ劇場はなぜ「マクベス夫人」ではなく「カテリーナ」の方を上演したのであろうか。
あえて「カテリーナ」を上演する意義というのは、どこにあるのであろうか。
 
ずいぶん前の1996年、ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場来日公演で、「マクベス夫人」と「カテリーナ」の両方を並べて上演したことがある。これなんかは、あえて比較したことで「何がどうなったのか」「なぜそういうことになったのか」を浮き彫りにする意義があった。その意味は大きかったと思う。
 
今回のボリショイ劇場は、上演場所が「モスクワ」だというのが妙に気になる。
まさかモスクワでは、今でも当時の社会体制と犯した事実を肯定している、なんてことはないと思うが。
 
「別に、深い意味なんてありませーん。たまたまですよ、たまたま。」というのなら、まあ別にいいけどさ。
もちろん、劇場インテンダントや指揮者ソヒエフが、「作品の完成度が素晴らしく、このまま埋没させるのはもったいないから」という純粋な芸術的判断だというのも、それでもいいけどね。