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2017/8/13 皇帝ティートの慈悲

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2017年8月13日   ザルツブルク音楽祭   フェルゼンライトシューレ
指揮  テオドール・クルレンツィス
管弦楽  ムジカ・エテルナ
ラッセル・トーマス(ティート)、ゴルダ・シュルツ(ヴィテッリア)、クリスティーナ・ガンシュ(セルヴィリア)、マリアンヌ・クレバッサ(セスト)、ジャニーヌ・デ・ビク(アンニオ)、ウィラード・ホワイト(プブリオ)
 
 
衝撃のモツレクを既に体験していたので、十分に免疫、受入体制が整っていたはずだったが、エキセントリックな演奏に、やっぱり腰を抜かす。まさに型破り、規格外。「ウッヘー~!」って感じ。
 
もし、いかにもあざとく、ウケや斬新さだけを狙った企みを持ってやるのなら、叩かれて然るべきだろう。
だが、クルレンツィスの演奏には、どういうわけかそれが感じられない。
おそらくそれは彼に絶対的な自信が備わっているからだろう。たぶん我々は、有無を言わせぬ強引な説得力によって圧倒され、湧き出てくる戸惑いが吹き飛ばされているのだと思う。
 
もちろん、この演奏を拒絶する聴衆がいても、決しておかしくない。
この日の演奏終了後、圧倒的なブラヴォーに混じり、いくつかの「ブ~!」が飛んでいたが、私は至極真っ当な現象だと思った。音楽は人間の感性に響く芸術である。感じ方は人それぞれで良い。
ただし、なるべくなら、様々な解釈を容認する自らの度量は広げておいた方がいい。結局は、楽しめた者勝ちの世界なのだ。
 
前回のモツレクでムジカ・エテルナの立奏方式に驚いたが、ピットの中でも同様だったのには感心した。つまり、ステージ上の見た目だけのパフォーマンスではなかったからだ。あのような演奏をするために必要な奏法技術なのだと思う。
 
もう一つ、「皇帝ティートの慈悲」という作品の中に、別のモーツァルトの曲をあちこちの箇所で挿入させていたが、その是非はともかく、一定の効果は上げていたと思う。
通説によれば、モーツァルトはこの作品を短期間のやっつけ仕事で仕上げたといい、それ故に評価がイマイチと囁かれている。
だとするならば、隙間を埋め、台本と完成品をより密接につなげるための作業を試みるのも、後世の演奏家の一つの手段なのだろう。誰もやってこなかったが、クルレンツィスはそれをやった。もしかすると強い使命感があったかもしれない。
上にも書いたとおり、発信者に絶対的な自信があるから、受け手の戸惑いは吹き飛ぶ。だとすれば、やっぱり彼は異端児ではなく、革命児だ。
 
抜擢されたソロ歌手6人のうち4人が黒人系だったのは、単なる偶然だったのだろうか。
違うような気もするが、まあそのことはどうでもいい。
それよりも、歌唱レベルにおいて、あるいは個性や存在感において、若干見劣りする人がいた。(誰とは言わない。)総合的アンサンブルの質を重視する指揮者の公演において、これは少々意外に感じた。
そんな中、最近注目を集め、話題になっているクレバッサは、間違いなくスターになっていく逸材。
 
演出のセラーズについては、彼なりの確固たる解釈があり、それをしっかり示し、細かい演技の振り付けを実践していた。
現代社会において目を背けるわけにいかないテロ問題を真摯に扱い、いささか政治的側面を感じさせる演出だったが、そういう主張は、私はありだと思う。
また、セストの暗殺未遂事件は、別人ではなく実際にティートに向けられ、その結果、ティートは傷付き、最後は死んでしまうというふうに読み替えていたが、この設定はモーツァルト他作品の曲挿入にあたり、一定の役割と効果を生んでいた。
 
ただし、演奏の方があまりにも尖がっているので、舞台上で起きていることの訴求力が弱い。はっきり言っちゃうと、「何かやっているんだけど、別にどうでもいいや」と思えてしまった節がある。
音楽と演出の均衡は崩れていた。が、もし「オペラは音楽なのだ」というのなら、これで全然構わないのかもしれない。誰が何と言おうとクルレンツィスの公演。仕方なし。