クラシック、オペラの粋を極める!

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初演版の「意義」について

人が明確な意思と目的を持って行動しようとする時、そこに「意義」というものが発生する。探求、創作、挑戦、実践などの場や過程で、それはよく語られる。
だけどな。
私が思うに、単なる個人的な趣味と嗜好の世界の中では、「意義」なんてめんどくせー物はいらない。不要である。
 
クラシック音楽の公演でも、この「意義」が盛んに語られるが、大抵ろくなもんじゃない。
 
「なかなか演奏されないレア作品が上演されて、意義があった。」
「困難を伴う公演が実現したことが画期的で、意義があった。」
「○○記念に相応しい曲が採り上げられて、意義があった。」
 
音楽評論家が選ぶ年間コンサートベスト10なんて、そういう公演がよくまあ選ばれる、選ばれる。偉そうに語る評論家ほど、意義にこだわる。
 
そういう公演では意義が重要なわけだから、やった行為そのものに価値を見つけ、その際結果には目をつぶり、「良かったのか」「秀逸だったのか」「感動したのか」は背後に追いやられる。
 
あのねえ、どうだっていいんだな、意義なんて。私には。
 
良い作品、好きな作品が聴ければいい。素晴らしい演奏であればそれでいい。
例え意義があっても、つまらない公演、わけのわからない公演なんて嫌だ。感動が湧かない公演なんてダメだ。
 
 
さて本題だが、今年のミラノ・スカラ座16-17新シーズン開幕公演、プッチーニ蝶々夫人」は、現行版ではなく初演版が上演されたのである。
 
蝶々夫人が初演された場所、それはミラノだ。以来この作品はオペラの殿堂で何度も上演され、重要なレパートリーになっている。
だが、音楽監督シャイーは、あえて通常ではない所に目を付け、彼なりのこだわりを見せた。
 
ほらほら、ここで「意義」の登場さ。
ミラノで初演された物を掘り起こし、ミラノで再上演する。112年ぶりの復活上演だ!
これは実に意義があるではないか! ウッシッシ。
・・ってか。やれやれ。
 
今回のスカラ座蝶々夫人」、評論家や学者、研究者がどう思ったか、どう評価したかは知らん。
私は、鑑賞して、どうしても違和感を拭い去ることが出来なかった。
単なるシロウト愛好家なのだから、日ごろから慣れ親しみ、愛着のある現行版で、どっぷりと感動に浸りたかった。「なかなか聴けない初演版が聴けて良かった」なんて微塵にも思わない。
 
天国で、プッチーニはどう思っているのだろう。
 
彼は書き直したのだ。修正したのだ。
その時、彼はもっと良い物にしようと精魂込めたはずだ。
改良の結果、その出来に「よし、随分と良くなったぞ」と確信し、芳しくなかった初演版の評価について「覆すぞ、名誉挽回するぞ」と意気込み、今度こその自信作を世に送り出したはずだ。
 
だというのに、後世の演奏家が「意義」という名の下に、わざわざもう一度元に戻してしまった・・。
もし私がそういうことをされたら、恥ずかしい気になり、「おいおい、なんてことするんだよ、やめてくれよ」と思うだろう。
それとも、「どうせ死人に口なし、意義の方が重要だもんね~」か?
 
シャイーからしてみれば、今回の「意義」について、鼻息荒くこう語るだろう。
「初演は必ずしも成功しなかった。だが、当時のミラノの聴衆がついて来られなかっただけで、プッチーニの音楽は初演版でも十分に素晴らしかった。それをもう一度ミラノで詳らかにし、プッチーニの名誉を回復する。」
 
はたしてプッチーニは喜ぶのであろうか?
 
いつか私が天国に召されたら、すぐにプッチーニのところに行って、そこらへんどうだったのか、聞いてみよう。
あ、イタリア語、勉強しなきゃな。死んだ後に備えて(笑)。