2015年12月21日 ミラノ・スカラ座
ヴェルディ ジョヴァンナ・ダルコ
指揮 リッカルド・シャイー
演出 モーシェ・ライザー、パトリス・コーリエ
シャイーは、先行する形で昨年5月に「トゥーランドット」を振っており、既に襲名披露を済ませている。
数々の演目の中からシャイーが選んだのは、かつて音楽監督を務めたボローニャ歌劇場で手掛けたことがあり、映像ソフトとしても残っている初期作品「ジョヴァンナ・ダルコ」だった。初演はスカラ座だが、その後はほとんど上演されたことがない、いわば埋もれた作品である。
ということは、過去の伝説公演や他の指揮者との比較に巻き込まれることなく、ボローニャで振った経験からの自信によって作品を蘇らせ、脚光を浴びることが可能になる。そういう意味ではグッドチョイス。あとはすべて結果次第だ。
その結果を出すために敷かれた盤石の歌手陣。なんという錚々たる顔ぶれか。
誰もが認める世界最高のソプラノ。その名がキャストに連なるだけで、その公演の格が上がる。
今回の舞台でも圧巻だった。凛とした佇まい。彼女だけにスポットが当たるかのような存在感。観ている人を釘付けにする演技。コントロール自在の歌唱テク。もう完璧である。
この日も、歌手に対して世界一厳しいと言われるスカラ座の天井桟敷から、盛んにブラヴォーが飛んだ。イタリア人でない彼女に対して捧げられる大喝采。熱狂する聴衆の様子を見て、私はふと、マリア・カラスを想像した。「カラスは、かつてスカラ座でこんな感じだったのではないだろうか?」と。
フランチェスコ・メーリも、これまた素晴らしい。
リチートラやラ・スコーラが亡くなり、フィリアノーティやベルティらが今ひとつ主導権を握れず、グリゴーロらの若い勢力にはまだ託しきれない中、純正イタリアンテノールの覇権は、今やメーリの物となった。
彼の長所は、歌い方にヘンなクセやこぶしが付いておらず、しっかりとした基礎に支えられた正しい発声テクニックが備わっていることだと思う。ゆえに、彼の歌は音楽そのものと感じることが出来る。
知名度では上の二人に決して見劣りしないカルロス・アルヴァレス。
体調を崩し、開幕から3回の公演をキャンセルした。無事回復し、今回も舞台に立ってファンをほっとさせたが、私は素直に喜べない。こいつ、以前も新国立劇場の「マクベス」で、やはり最初の何回かをキャンセルして、楽しみにしていたファン(自分を含む)をがっかりさせたことがある。何度もそういうことをする奴は信頼が置けない。
一流プロスポーツの世界で、怪我や大病は仕方がないとして、体調不良とかいって何度も試合を欠場する選手を私は知らない。健康管理も含めてパーフェクトな仕事をする。それがプロフェッショナルというものだろ?(おいカウフマン、聞いているか?)
この日の出来はまあまあ。でもブラヴォーは結構飛んでいた。みんな甘いな(笑)。
演出について。
大胆な読替えで観客を挑発するタイプではないが、作品を深く読み込み、そこで見えてくる何かを提示する試みを地道に続けるライザー&コーリエ。今回も、主人公ジョヴァンナの病床の夢の中で起こるストーリーとして展開させた。
カルロ7世はジョヴァンナが想像する人物になっており、武装した銅像から抜け出て、ジョヴァンナの夢の世界で蘇った。顔を含む全身を金色に染めて銅像仕立てとなり、見た目がかなりどキツイ。そんなメイクで歌うメーリは、なんかちょっと大変そうだった。
確かに夢物語であれば、天上から悪魔と天使が囁く場面もしっくりくる。プロジェクションマップの映像も、舞台底からそびえ立つように現れる壮麗な大聖堂の装置(かなりスペクタクル!)も、想像上の世界を描く道具としては、うまく機能していると感じた。
さて最後に再び、音楽を司ったシャイーの成果と出来栄えについて。
実によくまとまっていた。だが正直言って、彼が統率した音楽が公演の成否のカギを握っていたかと言えば、私はそうでもなかったように思う。
それに比べると、今回のシャイー、カーテンコールで最後に登場して、「おお、そういえばシャイーだったな・・」てなもんだ。
まあそうは言っても、まだ始まったばかり。これからの活躍を見守り、見届けるとしましょうか。