クラシック、オペラの粋を極める!

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2015/5/30 新国立 ばらの騎士

2015年5月30日  新国立劇場
指揮  シュテファン・ショルテス
演出  ジョナサン・ミラー
アンネ・シュヴァーネヴィルムス(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス)、ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、クレメンス・ウンターライナー(ファニナル)、アンケ・ブリーゲル(ゾフィー)、田中三佐代(マリアンネ)、大野光彦(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)   他
 
 
 新国立ご自慢のプロダクションの一つ。劇場側は、アイーダやトスカらと並んで、「末永く保持し、継続上演していきたい」と考えているに違いない。「名作はやっぱオーソドックスな演出で。初心者を含め、多くのお客さんが集うドル箱に育ってもらいたいものじゃ。」という魂胆が見え見え。
 一方のお客さん側も「名作なんだから、ヘンな読替えじゃなくてオーソドックスな演出で、音楽を心ゆくまで楽しみたいワ。」という保守的な人たちばっか。かくして両者の思惑は完全に一致。会場はほぼ満員。劇場は思わずニンマリ。多くのお客さんが詰めかけた初夏の芸術鑑賞のアフタヌーン
 
 私はというと、前回の2011年4月の上演に思いを馳せる。
 
 東北地方だけでなく日本全国が悲嘆に暮れ、立ち上がりの兆しも見えず、歯を食いしばって苦境を耐え忍んでいたあの時期。新国立劇場もまた、不安にまみれながら暗中を模索していた。
 日本との結び付きをことさら大切にしているはずと信頼していた指揮者にあっけなく逃げられ、元帥夫人、オクタヴィアン、ファニナル、ゾフィーらの主役外国人歌手にもことごとく逃げられ、敢然と残った勇気ある外国人と気骨のある日本人(すべてのスタッフを含む)が一致結束し、何とか上演にこぎつけた。替わりに来日した元帥夫人役のA・K・ベーンケ氏と、当初予定どおりオックス役を歌ったF・ハヴラータ氏には、「ありがとう」の感謝の念が込められた熱狂的な喝采が贈られた。
 あの時、我々オペラファンは、心の癒やしをひたすら「ばらの騎士」の美しい音楽に求めたのであった。
 
 
 感傷はここまでにして、それでは今回の公演について。
 
 指揮者ショルテスの手綱さばきがお見事。ゴージャスさや耽美さをことさら強調させることなく、スコアを忠実に再現し、物語と舞台の進行に寄り添う。その音楽の仕上がりがあまりにも自然なのだ。鑑賞した人は、100%舞台上のお芝居に集中できたのではないか。それもこれも、ショルテスの盤石な下支えがあったからこそ。
 おそらくショルテスは、歌手の演技を含めた「起きていることすべて」をコントロール下に置いていたと思う。
 
 演奏中何回か、明らかに指揮者のものと分かる「声」が会場に響いた。
 音楽に感極まって思わず唸った声なのか、それとも自らのタクトに呼応しない歌手や奏者に対する警告の合図だったのか・・・。私は後者だったような気がする。あれはきっとプロフェッショナルな職人気質のこだわりだ。
 
 シュヴァーネヴィルムスはさすがの一言。彼女の歌も、ショルテスの音楽と同様、自然極まりない。歌っているというより、語りがそのまま音楽になっている。経験値が高いのだと思う。それと、彼女自身がこの元帥夫人という役に深く共感しているのだと思う。ばたばた動かず凛とした佇まいが、それだけで高貴さを醸し出している。
 彼女の元帥夫人からは、若い愛人が去っていく際の寂しさと未練さが感じられない。最後に立ち去る場面でも、後ろ髪が引かれない。何だかとてもさばさばしているように見える。
「最初からこうなることはわかっていた。」
 いや、わかっていても、いざその時になると動揺するのが人間。ところが彼女の元帥夫人は落ち着いていた。達観していた。これもまたシュヴァーネヴィルムス流。
 
 ユルゲン・リンのオックスは絶品。これまで日本でアルベリヒやヨカナーン、ファニナルなどの役を披露しているが、オックスがベストのはまり役だろう。眉をひそめるようなしょーもない奴でありながら、どこかおかしくて憎めない。そんなオックス役を堂々と確立させた。声も張りがあり、歌唱も言うことなし。
 
 オクタヴィアンのアタナソフは、今回釘付けになった人も多かったのではないか。だって、超がつくほど美形なのだ。そのままジャニーズでいける(笑)。女性だけど。オクタヴィアン、かくありたし。もちろん歌唱も素晴らしかった。次は「ナクソス島のアリアドネ」の作曲家役を是非見たい。スボン役もいいがひょっとするとそのまま女性役も良さげなので、ヴェーヌスとかも是非見たい。
 
 ゾフィーのアンケ・ブリーゲルは、声そのものが透明で美しい。演技がぱっとせず、存在感が薄いが、これはおそらく演出のせいだろう。今回を含む3回のJ・ミラー版ゾフィーのいずれもがそんな感じなのだ。
 
 そのミラーの演出だが、冒頭に「オーソドックス」と書いたが、演劇の基本、イロハのイが感じられる優れ物だ。特にオクタヴィアンの「少年」そして「男」としての振付の仕方に流石なものを感じる。歩き方、座り方、股の広げ方など「ああ、これはしっかり演技を施されているなあ」と感心する。
 
 今回の上演は全体的にすこぶる名演と言っていいだろう。見逃した方、パスした方もいるかもしれないが、大丈夫。どうせまた近いうちに再演されるからね(笑)。
 
 私にとって5月はシュトラウス月間だった。そしてもう6月。旅行から1か月経つ。早いもんだ。