二期会公演「イドメネオ」で、思慮に富んだ演出を手掛けたD・ミキエレット。先日、彼の演出による「ファルスタッフ」舞台上演の収録映像をCS放送(クラシカ・ジャパン)で見たのだが、こちらもまた目の付け所がさすがというべき優れたプロダクションだった。
オペラが開始される前の冒頭、イントロ映像として、ミラノにある「音楽家憩の家」の外観が映しだされた。何気ない映像で、私も単に「ああ、ヴェルディの憩の家だなあ」としか思わなかったが、この後すぐに、これが演出コンセプトの起点であることに気付く。物語がこの「音楽家憩の家」で展開されるのだ。(ビデオ用だけでなく、実際の舞台でも外観のイントロ映像を幕に写していた。)
このミラノの音楽家憩の家について、知っている人と知っていない人とでは、演出の理解に差が出る。
ご存じの方も多いと思うが、「憩の家」とは引退した音楽家のためにヴェルディが私財を投じて建設した養老施設(老人ホーム)である。施設自体は現在も供用されているため一般見学は出来ないが、施設内の礼拝堂のお墓にヴェルディが眠っており、そこなら許可を得て見学することができる。ヴェルディファンの巡礼地の一つであり、私も10年くらい前に一度だけ訪れたことがある。
幕が開くと、そこはサロンのような施設の一室。多くのお年寄りがそこで談笑したり、食事をしたりしている。自力で歩ける人もいれば、車椅子や介助が必要な人も。
ファルスタッフはその中にいた。入所者の一人なのだ。とはいえ身体的には元気な様子で、退屈そうにソファに横になって居眠りしている。
もう何となく察しがつくだろう。ファルスタッフは歳を取って引退した音楽家だ。かつて歌劇場で脚光を浴びた往年のオペラ歌手という設定。老いてはいるが、体はまだ動くし頭も働く。そんな彼が日々想いに耽るのは、舞台で活躍し名を成した昔の栄光。
「あの頃は良かったなあ。自分にもいい時代があったよなあ・・・」てなわけ。
このように描かれてしまうと、我々見ている側はファルスタッフのことを単なる出っ腹の好色オヤジとして笑えなくなる。他人ごとではないのだ。人間はみな平等に歳を取るわけであり、歳を取れば誰でも昔のことを思い出し、懐かしみ、そしてメランコリーになる。滑稽な喜劇ではなく、さりげなく人生のたそがれに焦点を当てた着眼点がナイス。
ミキエレットは、老いの寂しさや悲哀だけにスポットを当てていない。物語の中では若さゆえに浮いた存在になっているフェントンとナンネッタの恋人二人。この二人に、施設内で生まれた老男女のほのぼのとした恋を重ね合わせた。恋に年齢は関係なく、男女間の愛は普遍的である。育まれた愛の喜びによって、施設内の人間模様に爽やかなそよ風を吹かせることに成功した。
最終幕の描き方も感心した。
何を隠そう、私はこのオペラの最終幕が物語的にあまり好きではない。それまで機知に富んだ策略でテンポよく物語を進展させ、大人の娯楽として観ている側を楽しませていたのに、最終幕になったら突然、幼稚な童話になってしまうためだ。メルヘンと言う人もいるかもしれないが、夜中にみんなで妖精に変装して、大の大人を突っついて懲らしめようなんて、ガキじみてつまらない。
ミキエレットはここをどのように演出したか。
ここでも彼の読替えは冴える。「老い」に避けて通れない問題をはめ込んだ。それは、忍び寄る死の予感である。今はまだ体が動くファルスタッフだが、横になって夢想していると、時々自分の葬式シーンが出てきて冷や汗をかき、心がチクチクと痛む。これが例のみんなに突っつかれて「痛え、痛え」のシーンになっているわけだが、こっちの方がよっぽど現実ぽくて面白いではないか。
最後はみんなで「この世はすべて冗談」と笑い飛ばす大団円。ここまで観てきて、なぜミキエレットがこの演出の場所設定に憩の家を選んだのかが、ようやく分かってくる。
これこそがヴェルディの本意であることをしっかりと示唆させるために、ファルスタッフはヴェルディの肖像画を掲げる。「さあ行け、老ジョンよ。自らの道を進むのだ。老いて死ぬまで。死んだら、真の男らしさは消えゆくのだ。」と歌いながら。ひょっとすると、ファルスタッフがヴェルディ自身なのではないか、などと思わせぶりに・・・。
2013年はヴェルディの生誕記念年。こんなにも素晴らしいプロダクションがザルツで上演されていたのだった。昨年は私もザルツにちょっとだけ立ち寄ったが、時間が足りなかった。時間があれば、是非観ておきたかったな。