クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2014/7/5 リヨン歌劇場

2014年7月5日  フランス国立リヨン歌劇場   オーチャードホール
指揮  大野和士
演出  ローラン・ペリー
ジョン・オズボーン(ホフマン)、パトリツィア・チョーフィオランピア他3役)、ローラン・アルヴァロ(リンドルフ他3役)、ミシェル・ロジエ(ニクラウス)、クリストフ・ガイ(シュレーミル)、カール・ガザロシアン(スパランツァーニ)    他
 
 
 素晴らしかったのである。どれくらい素晴らしかったかというと、今まで観たホフマン物語の中で一番良かったのである。
 といっても何を隠そうこのオペラはこれまでにたったの4回しか観ていないのであるが・・・。あまり説得力はないか。
 
 いやそれだけではない。この作品、これまで何だかよく分からなくてイマイチ共感できなかったのであるが(現実離れしたヘンなオペラだと思わない?)、今回なんとなく納得できたような、スッキリしたような気がしたのである。
 分からなかったことが理屈で解決されたわけではなく、あくまでも気分的なものだが、もやもや感が払拭されたということで、それだけでも十分満足で素晴らしいと感じたわけだ。
 
 もやもやをスッキリに変えたのは、演出面と音楽面の両方の貢献による。
 
 まずは演出面。
 ペリーはホフマンが経験した暗い過去を表現するために、全体をモノトーンに抑え、スポットライトや映像を駆使しながらシンプルかつシックに舞台を作った。それはあたかも余計な物を排してホフマンの心の中だけに着目し、心の中を覗いているかのようだった。
 そうしたことで見えてきたものがある。
 人形に恋するだの、娼婦から姿見を盗まれるだの、といったエピソードは現実の体験ではなく、失恋や別れによって増幅したホフマンの心の傷の痛みを比喩しているのではないかということだ。例えばオランピアのエピソードに関して言えば、人形に恋して心の傷を負ったのではなく、人間の女性に恋してフラれた結果、心の傷の代償として構築されたイメージがすなわち人形であり、シンボル化されたものではないかということ。
 
 そのように推理解釈していけば、同様にその存在が不思議で何者だかよくわからなかったニクラウスも、理解が可能。つまり彼(彼女?)は、ホフマンの心の中で失恋の痛みを和らげ、癒やすために自助作用するバランスの擬人化なのだ。
 
 ほらー、なんとなくあなたもスッキリしてきたでしょう?(笑)
 いや別にこれは私の勝手な解釈であって、正しいと押し付けるつもりはないが、私自身は「んー、そういうことだったわけね」と妙に納得してしまったのである。
 
 次に音楽面。
 大野和士がリードする音楽は、いつもながら迷いがなく、揺るぎがなく、そして潔い。
 これは演出の意向に沿った結果の産物なのかもしれないが、それぞれの幕や場面に応じた音楽表現を目指すのではなく、全体の統一性と一貫性に重きを置いている感じがした。
 これによって音楽全体に一本の筋が入り、クライマックスに向かってまっしぐらの勢いが保たれた。こうした勢いはスピード感と緊張感になって我々聴衆に伝わり、おかげで最後まで集中して鑑賞することができた。
 
 歌手では主役ホフマンを歌ったオズボーンが期待に違わぬ出色の出来。ハイトーンもバッチリ決まって聴衆を唸らせた。この人アメリカ人だが、フランス語の歌唱がめちゃくちゃ上手い。昨年アムステルダムで観たギョーム・テルのアルノール役でも巧みなフランス語歌唱を披露していたが、印象としてはこちらの方が良い。
 性格の異なる4人の女性役を見事に演じきったチョーフィもお見事。最初のオランピアのコロラトゥーラアリアを聴いた時はなんとなく違和感があって良くないと感じたのだが、おそらくこれは自分が耳馴染んでいたものと異なった単なる戸惑いだったと思う。
 もう一人のアルヴァロもドスの利いた声で存在感を示していた。
 
 実は演奏と演出の他に、もやもや感をスッキリに変えてくれた要因がもう一つあったことを付け加えておく。
 何かというと、それはフランス語である。
 
 当たり前だが、フランス人キャストが発するフランス語の響きは美しい。残念なことだが、日本人がフランス語のオペラを歌うと、私はいつもストレスを感じてしまう。セリフだと更にイライラが募る。(もっともフランス語をうまく操れないのは、実は日本人に限らないが。)
 言葉というのは、かくも重要だ。そういう意味で、今回のホフマン物語は私にとって決定打となった。
 
 正直に告白すると、今回のリヨン歌劇場来日公演にあたって演目がホフマン物語であることを知った時、少々落胆した。
 というのも、大野さんが音楽監督になってから現地公演のプレミエで採り上げた演目は、どれもこれも「それをやるか!」みたいな意欲的挑戦的な物ばかり。だからこそ「フランスのカンパニーだからフランス物」なんていう狭い了見にこだわらず、大野さんがやりたい演目、自信を持って披露したい演目を持ってきてほしかったと個人的に思っていたのだ。
 
 だが結果を見れば、本公演は目からウロコだった。

 そうしたことも含めて成果を最初から狙っていたのだとすれば、もうはっきり言って脱帽としか言いようがない。