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2014/3/15 新国立 死の都

2014年3月15日   新国立劇場
コルンゴルト   死の都
指揮  ヤロスラフ・キズリンク
演出  カスパー・ホルテン
トルステン・ケルル(パウル)、ミーガン・ミラー(マリエッタ/マリー)、アントン・ケレミチェフ(フランク/フリッツ)、山下牧子(ブリギッタ)   他
 
 
 愛する人、死んでもなお忘れられない大切な人、その人との思い出・・・。そうした過去を断ち切り、生きていくために前を向いて新たな旅立ちに出る。パウルが妻の亡骸にキスをし、そして思い出の詰まった家を出て行く感傷的なラストシーンに涙が溢れた。美しい音楽、そして美しい舞台だった。心に残る印象的な演出だった。
 
 この世に生の恵みを受けた以上、人は「別れ」から逃れることが決して出来ない。妻の死別でなくても、肉親を失った経験、愛する人と別れるという経験は、誰でもある。その辛さや切なさを理解することが出来るだけに、観ている人は大きく心を揺さぶられるのである。
 
 演出家ホルテンは、パウルの亡き妻に寄せる思いの大きさを表すために、舞台の上に亡き妻マリーを黙役として登場させた。パウルの幻想の世界を描いたのである。マリーはパウルにしか見えない。瓜二つのマリエッタを自宅に招いても、彼が見つめるのは静かに佇みながら微笑むマリーだ。
 
 演出効果は絶大だった。
 そうしたことで、パウルの思い詰めた様子、死者への強い憧憬がより鮮明となると同時に、幻想の中でしか存在しないマリーと目の前にいるマリエッタの狭間で揺れ動く苦悩も分かりやすく描かれることとなった。
 また第3幕で、自分を抱きながら実は別人(死者)に思いを馳せていると悟った瞬間、マリエッタはそれまでパウルにしか見えていなかったマリーの亡霊をついに捉えるのであるが、マリーが舞台上にいることで、マリエッタの強烈な対決姿勢が露わになる効果も生み出した。それはマリエッタの自信と誇りであり、マリーに対する嫉妬でもあり、パウルの目を覚ますための使命感だということがはっきりと見て取れた。
 
 
 それだけではない。
 この演出の奥深いところ、それは「マリーか、マリエッタか」を通じて、「生か、死か」、「信仰か、俗世か」、さらには「精神的な愛か、肉体的な愛か」、「快楽か、禁欲か」といった究極の選択にまで迫り及んでいることだ。生における普遍的な迷い、永遠のテーマを問いかけているのである。
(文章にするのはちょっと憚ることだが、マリエッタがパウルのズボンのベルトを外して性処理行為に及ぼうとすると、パウルは一瞬これに身を委ね、その後慌ててチャックをあげるというシーンがあった。生きている以上は性的欲求を避けられず、これを死者に求めることは不可能なのだ。)
 
 パウルがマリエッタを殺した瞬間、幻想は消え、それまで部屋の中を動き彷徨っていたマリーはベッドに横たわって動かなくなり、亡骸と化した。
 つまり、マリエッタを殺す、ということは、すなわち「パウル自身の迷いと煩悩を断ち切る」ことであり、同時に「マリーの魂を安らかに眠らせ、天国に送った」ということだと思う。
 であれば、パウルはもはや「死の都」に留まる理由はない。旅立ちは必然というわけであろう。
 
 最後にフランクがパウルにそっと手渡した紙は、いったいなんだったのだろう。旅立ちにあたって行先が告げられたメモ?切符?小切手? ロマンチックに想像を膨らませて「マリーが死ぬ前に書き残した手紙」なんてのはどうだろう。早く第二の人生を始めてちょうだいね、なんて書かれてあったりして。
 
 
 音楽面について。
 パウルを歌ったケルルがさすがの貫禄だ。この役を歌って100回になるのだという。そう言えば、私が持っているライン・ストラスブール歌劇場のライブ映像でも、ウィーン国立歌劇場のライブCDでも、パウル役はケルル。第一人者と言っていいだろう。
 初日はやや不調だったとの報告をネット上で見たが、この日はそうした印象は受けなかった。癖のある声と歌唱なので、人によっては好みが分かれるかもしれないが、あくまでも好み上の問題だ。私が知っている彼の持てる実力は発揮されていたと思う。
 
 好みが別れるかもしれない、というのはミーガン・ミラーも同様かも。十分立派だったと思ったが。特に第2幕のラストは圧巻だった。
 
 キズリンクの指揮による音楽は、前週に聴いた沼尻さんとはまた違ったアプローチで、この曲の別の一面と解釈を聴けたという意味で「なるほど、こういう演奏もあるのか」と思った。びわ湖の演奏と比較して良い悪いを下すつもりはなし。少なくとも私は作品の素晴らしさを改めて認識し、美しい音楽に何度もジーンと来たのであるから、まったく文句はありません。