クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

オリンピックを見て思ったこと

 オリンピックが終わってから既に日が経ってしまい、ややタイムリー感を失した気がしないでもないが、やはり記しておきたいことがあったので、書き留めておく。(ずっと忙しかったんだってば)
 
 ニッポン全国津々浦々で展開された「メダルメダル」の大合唱は、毎度の事とはいえ、本当にうんざりだった。オリンピックは選手の卓越した技術を競う世界最高の舞台であり、その磨き上げられた妙技を見るだけでも十分面白いコンテンツであるはずなのに、世間はメダルが有望な日本人選手の動向だけを追い求め、メダルを取れたかどうかの「結果」にしか関心がない。一番大切なはずの競技そのものに全く興味が無いのだ。ましてや日本人が出場しない種目なんか、「そんな競技をやってたの?」ってな粗末な扱いである。本当にひどい。
 
 更に。
 そうやって見事に期待に応えてメダルを取れた選手はいい。だが、あまりにも過大な期待に応えられずにメダルを逃し、テレビカメラの前で「ごめんなさい」と謝りながら泣いている選手のシーンを見て、私は非常に腹が立った。
 
 なぜ謝らなければならないのか。
 一方的に期待とプレッシャーを背負わせておいて、いったいいつからその結果に対して選手に責任を取らせるようになってしまったのか。
 
 確かにある程度の強化費が投じられている以上、相応の結果を求めるべきだとの意見は傾聴に値するかもしれない。
 
 それでも私は思う。だからといって、選手が謝る必要なんかない。
 選手は、ただひたすら栄光を目指し、頂点を目指してストイックに練習し、己の限界に挑戦したのだ。順位というのは、単にその結果にすぎない。そしてその結果というのは、実力そのものである。だから、選手はそれを受け止めさえすればいい。受け止めた上で、結果に納得がいかないのなら、更に試行錯誤と努力を重ねながら挑戦し続ければいい。
 
それが本来のスポーツというものではないのか!?
 
残念ながら、オリンピックはスポーツではなくなってしまっている。
視聴する側である世間の欲求と、供給する側であるメディアの思惑にまみれた安っぽいドラマに堕ちてしまっているのだ。
 
 そんな中で何人かの選手がインタビューで「メダルは取れませんでしたが、私は全力で頑張りました。自分の持てるものは出し尽くしました。応援ありがとうございました。」と答えているのを見たが、その発言に私は感動した。
 そう、それ。それなのだ。それが正しい答えなのだ。
 私はそれを見て、テレビの向こうの選手に対して「よくやった!」と拍手を送った。
 
 
 えー、オリンピックネタをもう一つ。今度は少しクラシック音楽に関連させながら。
 閉会式はすべてを見ることができずハイライト映像だけだったが、開会式と併せて、ロシアという国が世界に向けて発信したアピール、未来に向けて発信したメッセージは、見事に伝えられていたと感心した。
 
 改めて唸ったのは、ロシアが誇る歴史や文化芸術の領域の奥深さである。誰もが知っている、あるいはその名を聞いたことがある同国出身の歴史的著名人が次々と紹介される。こんなにも多くの偉人が排出されているのだと、その数に驚かされる。
 パフォーマンスのBGMでは、我々クラシックファンに馴染みのあるチャイコフスキーボロディンストラヴィンスキーリムスキー・コルサコフムソルグスキーらの名曲が次から次へと演奏される。
 私は羨望のため息をつきながら、その映像を見つめていた。
 確かロンドンオリンピックでも、まったく同様の思いを馳せた記憶がある。
 
 2020年の東京オリンピック
 世界の誰もが知っている日本人、「日本といえば誰々」といったまさに顔とも言える日本人、そうした人物がなかなか見当たらない日本が、果たしてどんなメッセージを発することが出来るというのだろう。
 
 もちろん日本がアピールすべき文化、誇るべき文化はというのは存在する。だが、歌舞伎などの伝統芸能や古来の祭りを単に紹介しておしまいという自己満足になってしまうのではないかという危惧を私は抱いている。(以前の記事にも書いたことがあるが)
 
 やっぱり日本は有形の文化もさることながら、「おもてなし」「まごころ」「おもいやり」といった日本人の美しい精神で勝負するのが一番いいのではないだろうか。
っていうか、もうそれしかないんじゃないかと思うのだが・・・。