クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

キーン先生に物申す

みんな、モーストリー・クラシック、読んでる?
私は定期購読してます。
毎月必ずテーマとなるような特集が組まれていてとても興味深く、それ以外にもコンサートやオペラの公演批評や海外事情の紹介等もあり、読み応えがある良い雑誌だと思う。

 この雑誌で巻頭記事を飾ることが多いのが、日本文学研究家ドナルド・キーンさんのエッセイ寄稿。
 先生の輝かしい業績に関しては私ごときが何かを言えるわけがないし、日本国籍を取得するほどに日本に愛を捧げてくれていることに対して、一人の日本人として感謝の念に堪えない。

 だが、ことモーストリーにおける先生の音楽エッセイに関して言うならば、申し訳ないが、ちょっと一言口を挟みたい衝動に駆られる。もちろん「大先生に対して偉そうな口をきくとは、オマエはいったい何者じゃい?」と言われてしまうので、ド素人の戯言としてお許しいただきたい。

 御年90歳であられるので、これまでに数々の伝説の指揮者やオペラ歌手を聞いてこられたのは本当に素晴らしく、羨ましいの一言である。つい昔話に花が咲いて、「私はカラスを聞いた、メルヒオールとフラグスタートは最高だった」などといった自慢話に走ることが多いが、まあ仕方がないことだろう。当然だと思う。なんたって歴史の生き証人ですから。その事自体は何の問題もない。

 私がつい一言言いたくなってしまうのは、先生がオペラにおける現代演出について、頑なに反対の態度を取っていることだ。読み替え演出、脚本やあらすじを飛び越えた演出に対し、その批判は痛烈であり、容赦ない。ほとんど拒絶反応を起こしていると言ってもいい。

 最新の今月号(4月号)でも、こんな一節がある。

「せっかく歌手たちの歌が素晴らしいのに、音楽をどう考えているのか首を傾げたくなるような演出家たちの現代的な舞台を見せられると、本当に閉口してしまう。」

「歌唱に関して言えば、これ以上は望めないほど優れているのに、あの演出ときたら・・・。いや、こういう時は目をつぶって歌を楽しむに限る。」

 なぜこういう主張になってしまうかというと、それは先生が「オペラ=(イコール)音楽」と決めつけているから。脚本どおりでない演出は作品に対する冒涜であり、そういう演出は音楽を阻害し邪魔するものと決めつけているから。

「オペラは音楽だ」という意見は、先生だけでなく、多くの人がそう思っている。一理あることは間違いない。
だが、私は問いたい。
オペラは音楽が全てなのか?
音楽が主で演出は従だと誰が決めたのか?
どうして演出が主張してはいけないのか?
演出が主張すると本当に音楽の邪魔になるのか?

 もしオペラ=音楽なだけなら、何も舞台上演する必要なんかない。コンサート形式上演にすればいい。家でCDでも聞いてりゃいい。にもかかわらず舞台上演にするのには、それなりの理由があるはず。

 言うまでもなく、オペラには音楽だけではない他の要素が加わっていて、それこそがオペラのオペラたる所以である。音楽は重要だが、演出や衣装、舞台装置、照明などは単なる音楽の添え物であるかと言ったら、決してそうではないと私は思う。

 オペラとは「物語(脚本)と音楽と演出によって構成された総合舞台芸術」なのだ。それらは、音楽を構成する「リズム・メロディ・ハーモニー」と同じで、どれもが重要で同等の権利を持つ要素だ。
 更に、オペラは「創造される芸術」でもある。書いてあるとおりにそのまま上演するだけなら、それは単なる再生にすぎない。そこから何かを生み出す力が備わっているのが、オペラだと思う。

 現代の多くの演出家は、まさにそのことを想起させてくれる。我々に想像と思索の時間を提供してくれる。未知なる物の発見があり、新たな観点、視点が見つかる。観る側にも「創造」が生まれ、それによって多角的な視野が備わり、好奇心が増幅されるのだ。現代演出は、私たちにそうした問いかけ、投げかけをしてくれる。

 だからと言って、私はキーン先生の持論を全面否定しない。「色々な視点があり、色々な意見がある」と尊重する。
 願わくば先生の方も、一方的に断じ、切り捨てるのではなく、様々な意見、見方、あり方、楽しみ方があることに大きな許容を示していただきたいと思う。雑誌の冒頭を飾る大先生のエッセイですから、読者に与える影響はとても大きいと思うのだ。