演奏を聞きながら、あるイメージを浮かべていた。
特にブルックナーを聞いていて感じたことだが、森、湖、川、海などの大自然の営みが、春夏秋冬、朝昼晩によって変容し、様々な一面を見せる姿のイメージ。(ドキュメンタリー番組などで見られるような、同じ場所からの撮影を早送りにして、陽光の加減や雲の動きが生き物のように変化していく、あのイメージ。)
写真や絵画のように時間を止めて瞬間を切り取って抽出するのではなく、動きや変化そのものを捉える。スコアという平面的なものを肉付けし、立体化し、それによって胎動していく姿を追っていく。
ティーレマンの音楽はまさにそういう感じであったと思う。
彼がやっているのは、作品に生命を宿らせること。更には、そこに熱いパッションを注ぎ込む作業だ。
では、どうやってそれを成し遂げるのか。どうしてそんなことが出来るのか。
もちろん私はティーレマン自身が語る音楽哲学を詳しく知らないし、具体的にどのように音楽を形成させ、どのようにオーケストラにそれを伝えていくかを観察したこともない。
よく分からないので、仕方ないから簡単に一言で言ってしまおう。それはきっと「魔法」だ。
同じように魔法によって作品に生命を宿らせ、熱いパッションを注ぐことが出来た指揮者を私は知っている。
カルロス・クライバーである。聴衆を一気に引き込み、熱狂させることが出来たという点でも、共通するものがある。
もちろんクライバーとティーレマンは、音楽のアプローチもタクトの姿も全然違うが、伝説の指揮者を想起させたということで、ティーレマンのグレードがいよいよカリスマの領域に入ってきた、なんだかそんな気がした。
(一緒に鑑賞したNさんは、『クライバーの場合は、その時々の演奏によって解釈も変わり、演奏に出来不出来の差も発生した。しかも限られた曲にしか手を出さなかった。ティーレマンの場合は確固たる音楽が備わっていて、手がける作品のすべてに彼の強烈なオーラが感じられる。その点においてティーレマンに軍配が上がる。』みたいな趣旨の話をしていた。なるほどなと思った。)
ティーレマンが魔法をかけるのは作品だけではない。オーケストラに対しても、そして聴衆にも。
残念ながらまだ一部の聴衆に魔法が効かない人がいるみたいだったが(笑)、あっけなくかけられた私にとって、この日は恍惚陶酔の二時間だった。