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2012/4/30 カルメル派修道女の会話

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2012年4月30日  シュトゥットガルト州立劇場
プーランク  カルメル派修道女の会話
指揮  マルク・スーストロ
演出  トーマス・ビショフ
アンヌ・カトリーヌ・ジレ(ブランシュ)、アンナ・ドゥルロフスキー(コンスタンス)、ロザリンド・プロウライト(クロワシー修道院長)、シモーネ・シュナイダー(リドワーヌ修道院長)、イルムガルド・フィルスマイヤー(マリー)、アタッラ・アヤン(シェヴァリエ)   他
 
 
 10年くらい前、シュトゥットガルト州立歌劇場は、モダン路線を強く打ち出し、意欲的かつ前衛的な新演出を積極果敢に製作して世に問い、ドイツの数ある劇場の中でも最先端を走っていた。この頃、P・コンヴィチュニー、C・ロイ、C・ネル、ヴィーラー&モラービト、H・ノイエンフェルスといった悪名名高い(?)演出家らの手によってさながら実験劇場の様相を呈していて、良い意味でも悪い意味でも注目されていた劇場だった。中でも極めつけは、ニーベルングの指環4部作のそれぞれをすべて違う演出家に委ねるという大英断を敢行したことで、これによって同劇場の名は世界に知れ渡った。
 また、今をときめく名ソプラノ、A・デノケや、E・M・ウェストブルック、C・ネーグルシュタッドなどはここで育ち、そして羽ばたいていった。
 
 ところが、である。
 時は流れ、最近は評判がとんと聞こえてこない。前衛路線が行き詰ってしまったのであろうか。支配人や芸術監督が変わってしまい、方針転換してしまったのであろうか。
 いったい、今、どうなっているのだろう?今回7年ぶりの同劇場での鑑賞である。
 
 
 このプロダクションの演出上のポイントは、脚本には存在しない狂言回し役を舞台に終始登場させていたことにある。
 フランス革命時の将校の衣装を着た男とも女ともつかない謎の人物は、ある時は、時代に翻弄される修道女に寄り添いながら彼女たちの生き様を見つめる役を務め、またある時は、革命の名の下に露へと消えて行く反体制派への首切り執行人の役を務める。もちろん、ラストのクライマックスで断頭台へ登っていく修道女たちの首を次から次へと切り裂いていくのはこの人物だ。(下の写真の左)
 
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 帰国してから、キャスト表に載っていた役名を基に調べたところ、どうやらこの人物は死に神らしい。だが写真のとおり、おどろおどろしさがないため、私は「運命を司る人」、「定められた運命そのものが擬人化された空想上の人物」と解釈した。
 
 演出的には、さらに、修道院を社会から隔絶され閉ざされた空間とせず、常に大衆が修道女たちの行動を外から見つめているように描いていたのも、ミソであった。
 
 今回の舞台を以上のように捉えると、一見、鋭い解釈に基づく革新的な演出のようにも見えるが、実際これらはちょっとしたアクセントにしかなっておらず、全体としてはおとなしめで、オーソドックスの域を出ていない。
 そもそも舞台に狂言回しを登場させて物語の展開をリードさせたり、大衆が外側から覗いているように見せかけるという手法は珍しくも何ともなく、むしろ使い回された常套手法と言わざるを得ない。
 
 この一作品を観ただけで、「やっぱりシュトゥットガルトは前衛路線から後退した」などと切り捨てることは尚早だろう。だが、「ある意味、今のシュトゥットガルトを象徴するかのような舞台だったのかな」という印象は強く持った。
 
 とは言え、このオペラの音楽が大好きである私にとって、オーソドックスな演出の中で音楽に集中できたのは歓迎すべき事であった。プーランクの素晴らしさを改めて体感できたという意味で、この日の公演は4つ星だったと言える。
 
 スーストロ指揮の管弦楽は音がキリリと締まって歯切れがよく、耳に心地よい。描写性に富み、各場面で劇的な効果を醸し出していた。
 
 歌手のレベルも安定していた。
 主役のアンヌ・カトリーヌ・ジレは、2009年大野和士率いるリヨン国立歌劇場引越し公演で来日し、ウェルテルのソフィー役を歌った。澄み切った魅力的な歌声だったことを覚えているが、今回は芯の通った力強さが備わっていて、別の魅力が引き出されていた。
 前修道院長クロワシー役は、一番最初のクレジットは、マリヤーナ・リポヴシェクだった。最近すっかり名前を見かけなくなりご無沙汰だったので楽しみだったが、その後、いつの間にかドリス・ゾッフェルに変更になった。
 ところが、会場に行ってみたら、今度はプロウライトという聞いたことのない人に更に変わってしまったのはどうしたことだろう。
 
 また、シェヴァリエ役の人が体調不良で急遽降板してしまい、やむを得ず舞台上で演技だけをする役者(劇場付の演出補あたりか?)と、舞台袖で楽譜を見ながら歌う代役歌手に分かれて急場をしのいだのも興味深かった。まさに、舞台芸術とは「生」であることを痛感。それもこれも、オペラという総合芸術を織り成す一つのピースなのかもしれない。