指揮 ユーリ・ヤコヴェンコ
演出 スタニスラフ・ガラダシンスキー
以前の記事にも書いたことがあるが、私が劇場やコンサート会場に足を運ぶにあたって、その選定の際に最も重視するのは曲や演目である。どんなに名高い演奏家や演奏団体であっても、プログラムが私にとって魅力のあるものでなかったら二の足を踏んでしまう。(と言いつつ、熟慮の結果、つまらないプログラムでも、演奏家の「名」を取ってチケットを買ってしまうことはよくあるが・・・。)
一方で、曲や演目が面白そうなら、チケットはためらわずに買う。今回はまさにそのパターンだ。
欧州歌劇場巡りをしている私でさえ、オデッサ歌劇場の存在を知らなかった。よくぞまあ、こんな東欧の無名の歌劇場の引越し公演を実現させたものだなあと、主催者に対して半ば感心もするが、かと言って、「ひょっとして、思わぬ掘り出し物を見つけられるかも?」などという過大な期待はしない。ただ、「イーゴリ公」が聴ければ、それで良かった。
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上記のとおり、演目だけに惹かれて買ったチケットであり、指揮者も出演者も誰一人としてお目当てはいない。(もう一つの演目であるトゥーランドットには、マリア・グレギーナが出演していたみたいだが。)
だから、演奏にも、そして演出にも、全く期待はしていなかった。
だが・・・。
いくら「期待していない」「ただイーゴリ公が聴ければいい」とは言っても、やはりその質の程度は重要だ。
まるで中学ブラスバンド部の顧問の先生のような、ただ拍子を取るだけの指揮者のタクト。
最低限度の水準は維持しつつも、沸き立つものがまるで感じられないオーケストラ。
ベタな演技、安っぽい装置、演出なんてあって無いに等しい舞台。
カットにまみれたボロディンの作品。
序曲からもう既にあくびが出始めた私。幕が開いても、すぐに退屈してきた。
歌手はまあまあそこそこだったが・・・。
観客の質も、言っちゃなんだが、◯◯だった。私の周囲はみんな招待客、タダ券だった。案の定、カバンの中から飴を取り出し、バリバリと音を立てて開封し、頬張る。
私は、なんだか時間が惜しくなってきた。と同時に、無性にフェルメールを見たくなり、観劇途中からいてもたってもいられなくなった。
ということで、甚だ遺憾であったが、私は前半部を終えて休憩になったところで、オーチャードホールをトンズラした。誠に申し訳ない。
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フェルメールの三作品は、現地や、あるいは来日展覧会などで既に何度も見ている物だったが、それでも相変わらず神々しさに溢れている。この不思議な魅力には抗うことができない。作品の前に立ったら、静かに時が止まった。かつて訪れたデルフトの街の光景が頭に浮び、しばし耽美な思索にふけった。
私は衝動買いをしない人間なはずなのに、決して安くはない商品を、気付いたらクレジットカードを取り出して購入していた。
ああ、いったいこの日はなんだったんだろう?果たして良い日だったのか悪い日だったのか・・・。