クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

初めてのベルリン・フィルは

 両親はクラシックファンだった。といっても、今のオイラに比べりゃ全然足元にも及ばない超ライトな愛好家で、せいぜい家で名曲レコードを聴く程度のものだったが。運命、未完成、新世界、ショパン名曲集とか、ガキの頃よく聴かされた。私がクラシックにのめり込む素地はこうして形成されたわけである。
 
 やがてエレクトーンを習い始め、ブラスバンド部にも入部し、目論見どおり音楽好きの子にすくすくと育った私に、親はとっておきのプレゼントを用意した。世界最高のオーケストラ鑑賞体験。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団来日公演コンサート。1977年、中学1年生の秋。情操教育ここに極めり。
 
 しかしなあ。ウチの親、よくもまあ海の物とも山の物ともつかないガキを連れて、こんな超高級なコンサートに行ったものだ。俺んちは別にセレブでも金持ちでも全然なかったぞ。小・中学生以下無料のファミリーコンサートとはワケが違う。
 実はここから更に遡ること2年、右も左もわからない小学5年生の時、この親はあろうことか、ムーティ指揮ウィーン・フィルのコンサートにも連れて行っているのだ!アホか、なに考えてるんだ、ウチの親は。もったいない。はっきり言って、金の無駄だろうが。そんな金があったのだったら、ゲーム買ってくれよ、おい。遊園地連れてけよ。
 
 
 ということで、東京杉並の普門館に行った。正確に言うと、連れていかれた。曲はベートーヴェンの第9、指揮はもちろんヘルベルト・フォン・カラヤンである。
 
 中学1年だとある程度物心はついているので、この日の公演がとびきりスペシャルな上等舶来品であることは何となく察しがついた。来場しているお客さんは自分みたいな子供はほとんどいなく、おしゃれに着飾っている大人ばかり。ステージに居並ぶのはガイジンども。自分のいる所が場違いで、かなり緊張したと記憶する。
 
 指揮台に颯爽とカラヤンが登場した。コンサートの前に、親が「カラヤンは世界最高の指揮者だ」と教えてくれた。だが、席のランクがそれほど良くなかったせいか、ステージは遠く、はるか向こうにいる指揮者にそれほどの凄み、オーラを感じることはなかった。
 
 曲が始まった。
 第4楽章の歓喜の歌だけなら小学生でも誰でも知っているが、厄介なのは第1楽章、第2楽章、第3楽章と全て聞かないと、その歓喜にありつけないこと。ちなみに、当時、私は生でもレコードでもこの曲を通しで全部聞いたことはなかった。これが長いんだ、まったく。ひたすら待たされる。第3楽章なんか最大の関門。「さあどうぞお眠りください」という緩徐楽章だ。
 
 だがこの日、イタイケで純粋な少年は「今日は寝たらヤバいんだろうな。」というプレッシャーを感じていた。寝たらきっと親に叱られる。少年はグッと堪えて睡魔と戦った。じっと歓喜の歌の訪れを待った。そして、ついにその時がやってきた・・・。
 
 子供心に驚き、腰を抜かしたことが2つあった。
 一つは、第4楽章の歓喜の歌の導入で、「Oh  Freunde!」と高らかに歌い上げるバス(バリトン)・ソロの轟きであった。巨大ホールで音響がイマイチな普門館さえも揺るがすような大きく、太く、響き渡った声。不自然にも感じられるほど震わせたビブラート。それまでの人生で聞いたことのない、信じられない人間の特異な声だった。(※ ちなみにこの時のバスはハンス・ゾーティン)
 
 腰を抜かしたこと、もう一つ。
 演奏後の怒涛のブラボーコールである。ブラボー!という掛け声の存在を知らなかったので、最初、何が起こったのか理解できなかった。興奮した観客が一斉に吠えた時、感動を超越してただただ驚いた。終演後、親から「どうだった??」と感想を聞かれた私の第一声は「演奏後のあのウワーッという掛け声、あれって何???」だった・・・。
 
 このように私の初のベルリン・フィル体験は、まさに「未知との遭遇」であった。
 
 あれから30数年。親の「音楽好きの子になってほしい」というささやかな願望は、予想外のあらぬ方向への展開を辿った。‘音楽好き’なんていう範疇を越えてオタク道に邁進。行き着く先はドロ沼、やがてハンドルを失って操縦不能に陥った。稼いだ金をコンサート・オペラ代に注ぎ込み、国内公演だけでは物足りなくなって、海外にも足を運ぶようになったドラ息子を見て、親は「こんなはずではなかった」と何度も天を仰ぎ、嘆いたことだろう(笑)。
 
 ごめんな、父ちゃん母ちゃん。でも、種を撒いたのはあんた達だよ。中学1年生をベルリン・フィルなんかに連れて行くから・・・・。