クラシック、オペラの粋を極める!

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2011/5/6 バーゼル歌劇場

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2011年5月6日  バーゼル歌劇場
指揮  ガブリエル・フェルツ
演出  ベネディクト・フォン・ペーター
ルフレッド・ウォーカー(アンフォルタス)、アラン・エヴァンス(ティトゥレル)、リャン・リー(グルネマンツ)、ロルフ・ロメイ(パルジファル)、ウルスラ・フューリ・ベルンハルト(クンドリー)   他
 
 
 ドイツの権威あるオペラ誌「OPERNWELT」が、ドイツ・オーストリア圏内の歌劇場において2年連続で「最優秀」に選定したエリート歌劇場。最先端の上演水準で欧州にその名をとどろかせており、私もかねがね訪れたいと思っていた。ようやく念願かなった形だ。
 この世界の事情を詳しく知らない方は、「え?最優秀歌劇場というのはウィーンやミュンヘンのように伝統と格式を備えた一流歌手や一流指揮者が集う名門劇場のことではないの?」と不思議に思うかもしれない。
 だが、ドイツ語圏内では見方が若干異なる。「創造性に富み、斬新な解釈に基づいた気鋭の演出作品をいかにプロデュースできるか」が重要で、そのような舞台を次々に創出し、現代における劇場の使命と意義を世に問うことができる劇場こそが「優秀」なのである。で、今、その先頭を走っているのがバーゼルというわけなのだ。
 
 建物自体は、別になんてことはない。外観も内装も普通の文化会館風である。だが、劇場に一歩踏み入った瞬間、ギョッとして足が止まった。開演前から、さっそくオペラの物語が始まっていたのである。
 
 ロビーに仮設の小屋が造られている。現代風のリビング部屋が二つ。それぞれの部屋に男が一人、女が一人。この二人は一つ屋根の下に暮らしている家族だ。兄妹であろうか。だが仲が良さそうには見えず、憂いの表情を浮かべながらまるで引きこもりのように佇んでいる。微妙な亀裂、疎外化した家族関係。
 それぞれの部屋に表札が貼ってある。「アンフォルタスの部屋」そして「クンドリーの部屋」・・・。
 なに!?アンフォルタスとクンドリーが同じ家族だって!? どういうこと!?
 開演前からいきなり演出による先制パンチを食らって戸惑う観客。だが、舞台の上で上演されたパルジファルはもっともっと複雑怪奇だった・・・。これが二年連続最優秀歌劇場の正体なのか?なんという展開、仰天、二の句が継げない読替演出。これを「解釈」と称していいのか?原典をどう読み込んだらこのようなストーリーに変容するのか?あまりにも突飛。
 
「双子の数奇な人生」これがテーマだ。(はぁ??って感じだよね)
 双子であるがゆえの宿命の兄弟関係。目に見えない糸で結ばれている双子。切っても切れない縁。遠く離れて別々に暮らしていても、片方が苦しみや痛みを味わうと、もう片方も同じ苦しみや痛みを感じる。片方が不幸な目に遭いそうになると、もう片方が嫌な胸騒ぎを感じる。お互いの双子だけが感じられるテレパシーのような不思議な能力。
 
 「ちょっと待った、パルジファルに双子兄弟なんか登場しないじゃないか」と思いますよね。それこそが演出家の拡大解釈による読替なのだ。
 
 クリングゾールに傷つけられたアンフォルタスには双子の兄がいた。遠く離れた場所で(距離感を出すために、オケピットを挟んで客席のスペースにもセミステージを設けてある)、アンフォルタスの兄は弟の痛みを感じ取り、思いを馳せながら悩み苦しんでいる。アンフォルタスの兄-なんと、‘ティトゥレル’なのだ。
「うっそ~!!ティトゥレルはアンフォルタスの父だぞ!!」
どう考えても演出家のこじつけ。(ちなみに、アンフォルタスとティトゥレルを演じる歌手は二人ともアフリカ系アメリカ人(黒人)を起用している。)
 
 第1幕の儀式の場面で登場するティトゥレル、ワーグナーのテキストにははっきりと「我が息子アンフォルタスよ」というセリフが書かれている。この矛盾を回避するため、そのセリフを直接ティトゥレルに言わせずに、舞台裏からのマイクで放送するという周到な辻褄合わせ。そこまでしてでもこのオペラを双子の苦悩に仕立て上げたいのか??
 それだけではない。ロビーの家族部屋のとおり、クンドリーもどうやら複雑な家族関係に関与している。もう、何が何だかわからない。
 
 原典を貫く聖杯伝説、宗教儀式的色彩は完全に影を潜めている。というか、もう全く別の物語に摩り替わっちゃっているのだ。もう何をか言わんやである。
 
 こんな「アンフォルタス家の問題」物語になってしまった結果、完全に蚊帳の外に置かれてしまったのが主人公パルジファル。彼はいったい何なのだ??彼の存在の意味は何だ??全く分かりません。
 
 そもそもこの演出プランをきちんと理解できた観客がどれだけいるのか?私だっておそらく演出家の主張の3割くらいしか読み取れていない。頭の中は「???」だらけで混乱し、ちんぷんかんぷん。
 
 そんな状態で聞くワーグナーの音楽のなんと心に響かないことよ。当然である。だって音楽と物語が全然関係ないのだから。
 
 こういうのを「最先端」と言うのか。こういう誰も理解出来ない上演をする劇場が「優秀」なのか。そして、何よりも、こういう上演を続ける劇場をバーゼル市民は支持しているのか。
 客席はビックリするくらいガラガラだった。半分も入っていない。惨憺たる状況。
 平日。午後6時開演午後11時半終演という長丁場。決して人気演目とは言えないにも関わらず一演目あたりの公演数が多く(計11回)、この日はプレミエから1か月が経っている6回目公演だったこと。などなど、色々と集客上不利な点はあろう。
 だが、もしも、あまりにも前衛すぎて観客が敬遠しているのだとしたら・・・。
 評論家だけが喜び、一般のお客さんが背を向ける-こんな本末転倒なことはない。
 
 私はこの劇場の行く末を案じ、さらにオペラの行く末を案じながら帰路に着いた。