
2024年10月28日 ミラノ・スカラ座
ワーグナー 楽劇ニーベルングの指環より 「ラインの黄金」
指揮 シモーネ・ヤング
演出 デイヴィッド・マクヴィカー
ミヒャエル・フォレ(ヴォータン)、ノルベルト・エルンスト(ローゲ)、オラフール・シグルダルソン(アルベリッヒ)、ヴォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケ(ミーメ)、パク・ジョンミン(ファーゾルト)、アイン・アンガー(ファフナー)、オリガ・ベズメルトナ(フライア)、オッカ・フォン・デア・ダメラウ(フリッカ) 他
スカラ座が10年ぶりにリングを制作。ここから4部作を順次上演していく。まずは、今回の「ラインの黄金」。
現時点で正式発表されているのは、2025年2月に「ワルキューレ」、同年6月に「ジークフリート」と、そこまでだが、2026年中に最後の「神々の黄昏」を出してくることは、ほぼ間違いない。つまり、2年でプロジェクトを完成させる見込みだ。
しかーし、前回記事に書いたとおり、当初に抜擢し、シリーズの目玉だった指揮官ティーレマンは降板した。
「ラインの黄金」だけでなく、なんと4部作の残りの3演目もすべて降板。統一された芸術的試みを完遂出来ない、という理由とのこと。
やれやれ・・。
劇場の威信をかけた一大プロジェクトのはずなのに、スカラ座、いきなり出鼻をくじかれちゃったねぇ。
まあとにかく、今回の「ラインの黄金」プレミエである。
ずらりと勢揃いした重厚なキャスト。ワーグナー上演でお馴染みの名歌手ばかり。
イタリア・オペラの殿堂「スカラ座」だが、いざこうしてドイツ物をやるとなれば、ウィーンやバイロイト級の陣容をバッチリ揃える。そこらへんは、さすがのスカラ。プロジェクトの躓きを思い切りカバーしたのは、誰が何と言おうと彼ら歌手陣であった。
一人ひとりが優れている。「この人が断然良かった」とか「この人はイマイチだった」とかが無くて、皆一様に上手かった。
まあそうだよな、このキャストだもんなー。
カーテンコールで、特にブラヴォーが大きかったのは、アルベリッヒのO・シグルダルソン、それからファーゾルトのパク・ジョンミン。
逆に、客席の一部からブーが飛んだのは、ローゲのN・エルンストだったが、いやいやそれは無いって。オマエら厳しすぎ。
ヴォータンのM・フォレは、昨年4月、ベルリン・フェストターゲで上演されたリングで同役を歌ったのを聴いた。2016年には、ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデンが「ザルツブルク・イースター音楽祭」という看板で来日し、サントリーホールで「ラインの黄金」を演奏しているが、この時にヴォータンを歌ったのもフォレだった。今、ヴォータンと言えばフォレ。その貫禄をこれでもかと見せつけた。
フリッカのO・v・d・ダメラウ、今年4月、東京・春・音楽祭で来日し、歌曲リサイタルを行ったが、その時よりも遥かに存在感があって、光っていた。
このように、「なによりもオペラの舞台で輝く」という歌手、いるのである。
彼女は2011年のバイエルン州立歌劇場来日公演の「ナクソス島のアリアドネ」(指揮:K・ナガノ)では、端役の「木の精(ドリアーデ)」だったし、翌年ミュンヘンで聴いた「ワルキューレ」(指揮は同じくK・ナガノ)では、「ワルキューレの乙女たち」のグリムゲルデだった。
それが今ではフリッカなのだ。成長したのであるなー。
指揮のS・ヤング。
今回の私の印象としては、彼女のカラーを強烈に押し出すのではなく、そつなく舞台を支えたという、ちょっと地味なものだった。こちらが勝手にもっと重厚で、ピットから音がズンズン響くようなワーグナーを期待してしまったせいかもしれない。
カーテンコールでは、多数のブラヴォーに混じって、いくつかのブーを食らっていた。
まあ、さ、代役なんだから勘弁してあげようぜ。引き受けてくれただけでも感謝なのだ。
マクヴィカーの演出について。
伝統的な衣装を着せ、神話的な要素を取り入れた、かなりのオーソドックス・タイプ。真っ向勝負の正攻法とみた。近年は登場人物に背広・ネクタイ、ドレスなどを着用させる現代読替えが幅を利かせているので、逆の意味で新鮮。
ただし、決して古色蒼然という感じでもなく、舞台装置に巨大なオブジェ(「手」だったり、「顔のマスク」だったり)を配置して象徴化を図り、イメージを喚起させるというやり方だ。
ラインの黄金は、金塊ではなく、人が演じていた。これも「黄金に魂が宿っている」という象徴化の一つ。
音楽や物語に集中したいのなら、これくらいの舞台がちょうど良いかもしれない。
それでもカーテンコールで演出チームが登場すると、ブラヴォーとブーが半々に飛び交う。
ブーを飛ばした奴らは、いったい何が気に食わなかったのだろう。
もっと斬新、過激で、わけの分からん現代読替えをやれ、ということだったのだろうか?
もっとも、注目を集める「ニーベルングの指環」の演出を手掛けるとなると、誰がどのようにやったところで、結果は常に好感と反感が交錯する。これはもう仕方がないことであるな。