この日はバート・ヴィルトバートからミュンヘンへ4時間かけて電車移動。
到着後は特に観光をしなかったので、さっそく公演の鑑賞記に入る。今回の旅行の千秋楽、最終公演。翌日に帰国する。
2024年7月29日 バイエルン州立歌劇場
プッチーニ 西部の娘
指揮 ユライ・ヴァルチュハ
演出 アンドレアス・ドレーゼン
マリン・ビストレム(ミニー)、イ・ヨンフン(ディック・ジョンソン)、ミヒャエル・フォレ(ジャック・ランス)、ケヴィン・コナーズ(ニック)、バリント・ザボ(アシュビー)、ティム・クイパース(ソノーラ) 他
殊更意識していたものではないが、もし私にとって今年の「プッチーニ没後100年」を記念する公演鑑賞があるとしたら、それは5月にアムステルダムで聴いた「三部作」と、この「西部の娘」になるだろう。
特に、「西部の娘」に関しては、プッチーニ作品の中で「修道女アンジェリカ」と並び、個人的に大好きな曲。同時に、なぜこの美しい作品があまり上演されないのか不思議でならないし、非常に残念なことだと常日頃から思っている。
舞台のロケーションがアメリカ西部開拓時代のカルフォルニアという設定に、オペラらしくない(西洋的ではない)微妙な違和感があるからだろうか・・・。
(それを言ったら、「蝶々夫人」だって「トゥーランドット」だってそうだけどな・・)
仮にもしそうなら、このA・ドレーゼン演出のミュンヘン版はお勧めだ。なぜなら、いかにもアメリカ西部劇のようなステレオタイプ的要素を削ぎ落とし、モノトーンの無機質な舞台装置、現代風の衣装の中で繰り広げられる人間ドラマに集約させていたからだ。特段に読替えを試みているわけでもなく、純粋に普遍性を捉えているわけである。シンプルで、非常に良い舞台だと思う。
演奏の感想というより、引き続き作品の話になってしまうけど、この物語の主人公は、ミニーとD・ジョンソンとJ・ランスの3人で間違いないが、実は影の主役がいる。お分かりか。
「鉱夫たち」である。
一攫千金を狙ってやって来ている、どちらかといえば荒くれ者たちだが、実は素朴で、優しくて、めちゃくちゃいい奴ら。
ホームシックにかかった仲間を「故郷に返してやろうぜ!」といって募金を集めるシーン、ラストの場面でミニーの哀願に動揺し、「なあ、みんな、一つ許してやろうぜ」と心変わりしていくシーン、でも許すということはすなわちミニーが去って行くということで、結局寂しさに打ちひしがれてしまう・・・。
これらのシーンを観るたびに、私はいつもいつも彼らの心情に寄り添ってしまい、胸が熱くなる。繰り返すが、「西部の娘」は本当に美しい作品、傑作なのだ。
歌手について。
韓国のエース、イ・ヨンフン(ヨンフン・リー)が、最強パフォーマンスを発揮。ミュンヘンっ子たちを熱狂させた。
すげえよな・・・。
今や世界中の劇場に人材を送り込み、席巻している韓国出身の歌手たち。その筆頭格がユン・カンチュル(クワンチュル・ユン)だとしたら、ヨンフンは彼に次ぐトップスター。お隣の島国出身の私なんかは、ただただ脱帽し、この国の層の厚さを羨ましく思う。
ミニー役のM・ビストレムは、もちろん悪いなんてことはまったくないが、かといって特筆すべきでもない。ブロンド美人なので、その点は野郎どものアイドルであるミニー役にぴったり。
ジャック・ランス役のフォレは、ベテランらしい味のある歌唱と立ち振舞いが見事だが、さすがにちょっと老けてきたか。ミニーに言い寄る姿を見て、「おっさん、いい年して止めとけ」と思わずツッコミを入れたくなってしまった。スミマセン。
指揮のヴァルチュハ。読響の首席客演指揮者に就任したばかりのスロヴァキア出身の俊英。
何を隠そう、私はその読響の公演に行ったことがなく、本公演で初めて聴いたが、すぐに「ああ、いい指揮者だ」と確信した。
タクトは非常に細かく、精密である。全方位に目と耳を傾け、すべての音に注力していることが分かる。テンポ、バランス、陰影、ドラマの起承転結、どれも抜かりなく、音楽が彼の懐の中で思惑どおりに展開されている。
コンサートに主軸を置いている指揮者なのかと思ったが、略歴を見てみたらナポリ・サンカルロ劇場の前音楽監督であった。(現監督はダン・エッティンガー)
そして、そのサン・カルロ劇場で振った「西部の娘」公演の収録映像が、DVD、ブルーレイのメディアで出ていることも発見。なるほど、だから万全、お手の物だったわけだ。
次の読響公演は絶対に行くぞー。
ということで、2024年夏の旅行記おしまい。良い旅行でござんした。
日本は暑いのう・・・。