2022年12月7日、8日 シュターツカペレ・ベルリン サントリーホール
指揮 クリスティアン・ティーレマン
12月7日 ブラームス 交響曲第2番、第1番
12月8日 ブラームス 交響曲第3番、第4番
日本でティーレマン指揮の公演が行われると、鑑賞した聴衆の感想文句として、SNS上には「ティーレマン節」という言葉が散見される。
テンポや強弱、ルバートやパウゼなど彼独特の緩急自在のアゴーギク、デュナーミクのことを表しているとされ、人によってはオーバー、強引と感じるかもしれず、以前はどちらかというと「あざとい」といったネガティブな意味で使われていたと思う。近年、ティーレマンの力量が世界的に評価されるようになり、聴衆も実際にその説得力に圧倒されるようになると、徐々に肯定的に使われるようになってきた。
何を隠そう、私も昔は彼の大胆不敵な表現を目の当たりにしながら、「これぞティーレマン節」と称したこともあった。
時が経ち、彼の指揮する演奏を何度も聴いてきた今、感想文句としてそのような言葉を用いることはなくなった。
独特のアゴーギク、デュナーミクは、決してウケを狙っているわけではなく、わざと違いを生み出そうとしているものでもない。もっと必然的かつ根源的なもの、紙に書かれてある音符に指揮者が生命力を吹き込んで音楽に昇華させるための神秘のパワーであることを完璧に理解したからだ。
この理解に到達した時から、私はティーレマンの演奏を「人間的なもの=ヒューマニズム」と感じ取るようになった。演奏にダイナミックな動きや変化がみられるのは、人には喜怒哀楽があり、様々な感情があり、日々の行動があり、進化成長しているからである。
例えば、彼が大きく煽ったかと思った瞬間、サッと身体をよじって裏返しにしたりするのは、人間の相反する複雑な感情の起伏、気持ちの揺れ動きのように思える。
そうした意味において、今回のブラームスは私にとって画期的な体験であった。
これまで、私がブラームスの交響曲を聴いてなんとなく頭に思い浮かべていたのは、風景や慕情だった。絵画を見るような感性が働いていたと思う。
今回のブラームスにおいても、演奏を聴きながら絵画的風景を思い浮かべることは出来る。
だが、これまでと違うのは、その絵画の中に生き生きとした人間の営みが見えることだ。
そう、ピーテル・ブリューゲルの絵画のように。
かのごとく思いを巡らせた結果、私は、なぜティーレマンのレパートリーが頑然とドイツ・ロマン派付近に留まっているのか、なんとなく分かったような気がした。ヒューマニズムを追求しようと思った時、ロマン派主義に行き着くのは自然の成り行きだろうからだ。
シュターツカペレ・ベルリンの演奏も実に見事で味わい深かったし、指揮者ティーレマンの志向をしっかりと具現化していたと思う。
これまでこのオーケストラとティーレマンとの結び付きはほとんど無かったはずだが、やはり10月のリング・サイクルの代替共演で、ティーレマンの真骨頂とも言えるワーグナー上演を経験したのが大きかったのではないかと思う。短期間であっという間に絆が結ばれたのではないか。
だとするならば、バレンボイムの後任はもうティーレマンで決まりでいいんじゃないかと思いきや、シュターツオーパー総裁はこれを明確に否定しているらしい。
その理由というのが、まさに上記の頑然と固執したレパートリーにあるのだという。曰く、それでは劇場の未来への展望、発展性を見つけられない、と。
なんで? いいじゃん、別にそんなの。
ドイツ・ロマン主義の牙城、最後の砦となる現存唯一無二のドイツ人指揮者ではないか。
シュターツカペレ・ベルリンは450年の歴史を誇るわけでしょ?その伝統と栄光を未来に繋げることが出来る指揮者を放っておく手はないと思うのだが・・・。