ボストン交響楽団 サントリーホール
指揮 アンドリス・ネルソンス
2022年11月13日
マーラー 交響曲第6番 悲劇的
2022年11月14日
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 皇帝(ピアノ:内田光子)
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
2日続けて鑑賞したが、マーラーのインパクトがあまりにも大きかったため、そちらの感想を基軸にして書く。ただし、内容はショスタコーヴィチの演奏にも相通じており、差異はない。
さすがはアメリカのメジャーオケ、名門ボストン。ものすごい音だった。
聴いた人が漏らした感想をネットからザッピングしても、同様に「凄」という文字が踊っている。
ぶっちゃけ言うと、マーラーの曲そのものが壮絶極まる逸品の故であり、それを容易く演奏の成果として「超絶的名演!」と一刀両断してしまうのは、憚りがある。
だが、それを差し引いても、冷静かつ客観的に見ても、やはりマーラーの演奏は凄かったと思う。
何が凄いって、オーケストラの潜在的パワーと技術。これに尽きる。勝負あり。パワーと技術を要する作品に対し、パワーと技術を備えるオーケストラが演奏したら、もう完全にお手上げなのだ。我々聴衆は、音楽的解釈や創造性もさることながら、単純に「うめー!」に圧倒され、問答無用で聴き惚れてしまったのである。
一つ指摘しなければならないのは、ここで言うパワーとは、何も音の強さや大きさだけに留まらない。弱音にもパワーが潜んでいる。
マーラーもショスタコも、弱音の美しさを強調するシーンが多々あったが、そこでも湧き上がるパワーが伝わってくる。弱音とは単なる小さな音ではない。小さな音量の中にハッとするような美しさを醸造させるためのエネルギーが満ち溢れており、それが流麗に放出されている。
もちろん、強音の輝かしさは言わずもがなで、ただただ惚れ惚れするばかり。特に金管とパーカッション。ここでは、劇的な迫力と高揚感、浮遊感に包まれ、聴き手をカタルシスに誘ってくれる。
それにしても、ボストンってこんなにも鳴るオケだったっけ?
なんだかイメージが覆された。
アメリカのメジャーオケはどこも皆「がたい」がデカく、ブリリアントで、シカゴやニューヨーク、フィラデルフィアなどがその典型。
その中で、クリーヴランドとボストンは比較的欧州の伝統を感じさせるシックな佇まいが持ち味だった・・・ような気がする。
もっとも、今、世界の潮流はインターナショナル化で、均一化し、個性が失われつつある。ボストンがシカゴやニューヨークと同じ傾向になりつつあるのだとしたら、それはそれで少し寂しい気もするが・・。
指揮者のネルソンスのタクトも、なんだか変貌を遂げている気がする。
以前のネルソンスは、手を大きく弧を描くように回し(ヤンソンス流)、かと思うと、ギュッと体を縮めて弱音を要求し、要所要所で緩急に変化を付けながら、オーケストラを引っ張るタクトだった。
それが、今回の指揮では、泰然とリズムを刻みながら、オーケストラに委ねるところは委ね、冷静に鳴っている音やスコアの構成を見つめている場面が目立った。
指揮者とオーケストラの良好な信頼関係の賜物と言うことも出来るだろう。あるいは、彼自身の円熟の境地を示す証ということか。
ということで、今回の公演のポイントは、「指揮者とオーケストラ両方の進化と熟成の目撃」とまとめ上げていいかもしれない。
最後になるが(付け足しみたいで大変申し訳ないが)、内田光子女史のベートーヴェンは、毎度のように繰り広げられる彼女独自の世界観を伴っていて、唯一無二であった。