クラシック、オペラの粋を極める!

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バイロイトの「さまよえるオランダ人」

今年のバイロイト音楽祭で上演された「さまよえるオランダ人」のライブがNHKのBSプレミアムシアターで放映され、これを視聴した。

何はともあれ、今年音楽祭の幕が開いたのは良かった。昨年はコロナで中止に追い込まれた。第二次世界大戦以来の中止という事態は、仕方がなかったとはいえ、ファンや関係者にとって衝撃的なことだったと思う。今年はキャパシティの半分という入場制限を実施の上、ようやく開催にこぎつけた。

バイロイト、現地ではどんな様子だったのかな、と想像してみる。
欧米人にとって劇場は社交の場であり、特にバイロイトのような高級音楽祭は、そうした風潮が強い。みんな集まって飲み食いしながら談笑するのが好きだから、感染予防としては若干心配な面もあろう。
その一方、ワクチン接種は進んでいるから、比較的おおらかでオープンな雰囲気になっているのかもしれない。

ちなみに、演奏終了後のカーテンコールでは、バイロイト名物の足踏みドンドンに加えて、盛んにブラヴォーが飛び交っていた。飛沫防止マナーなんか全然お構いなし(笑)。
サッカーのスタジアムでも欧州はお客さんが戻りつつあり、みんなマスクをせずに堂々と声を張り上げて応援している。こういうのを見ると、良い意味でも悪い意味でも「欧米だよなー」と思う。


さて、オランダ人である。
何かとお騒がせな演出家、ロシアのチェルニャコフが登場だ。
やれやれチェルニャコフ、ついにバイロイトに招かれてしまったか・・。
確かにバイロイトは昔から実験劇場の趣きがあって、過激な演出を厭わない伝統がある。そもそも総裁のK・ワーグナー女史がそういう演出家なのだから、これはもう順当、呼ばれるべくして呼ばれた演出家と言えそうだ。

既にこれまでに何度も言及しているとおり、私自身は現代演出、読替演出は嫌いじゃない。
ただし、そこに作品を研究した結果としての必然性が伴っているべきだ、というのが私の持論だ。
つまり、作品の中に多様な解釈の余地が存在したり、別の角度から眺めると違った一面が見えたり、といったポテンシャルがあり、それを浮き彫りにする意義があるのなら大歓迎だが、単なる思いつきやこじつけ、斬新さだけを追い求めた演出は大いに疑問あり、ということである。

そういう意味で、チェルニャコフは若干グレーだ。
彼の場合、最初から読替えありきで、そこからスタートし、物語をいかにすり替えるかが最大の関心事ではないかと勘ぐりたくなる。このオランダ人の演出にしても、そうした臭いはプンプンする。

一方で、チェルニャコフは読替えをすることで作品に新たな可能性が生まれる、ということは間違いなく確信しており、その信念に基づいてチャレンジしている。その試みは、ある意味潔いとも思う。

単なる思いつきではないことも明白だ。
「オランダ人の永遠の断罪は、幼少の頃、母親が男(ダーラント)に弄ばれ、閉鎖社会の犠牲になって自殺を遂げた場面を目撃してしまったというトラウマからきている」という読替えは、オランダ人とは何者か、オランダ人の暗い人格はどのように形成されていったのか、という演出家の探求の帰結なのだ。

それにしてもチェルニャコフ、カーテンコールで盛大なブーイングを食らっても意に介さずに笑みを浮かべるあたり、不敵なヤツである。


音楽祭初の女性指揮者オクサーナ・リーニフ。これは本当に素晴らしい演奏だった。
女性とは思えない強力なパワーとエネルギーでワーグナーの音楽を思う存分鳴らし、カーテンコールでも大喝采を得ていた。空前の成功を収めたと言っていいだろう。

もう一人の初登場、ワルキューレを指揮し、来年の指環四部作を任されているピエタリ・インキネンは、聞き伝によればかなりのブーイングを浴びたらしいので、結果は好対照だったのかもしれない。