クラシック、オペラの粋を極める!

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2021/8/12 二期会 ヴェルディ・レクイエム

2021年8月12日  二期会   東京オペラシティコンサートホール
指揮  アンドレア・バッティストーニ
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
木下美穂子(ソプラノ)、中島郁子(メゾ・ソプラノ)、城宏憲(テノール)、妻屋秀和(バス)
ヴェルディ  レクイエム


高校生の時、ブラスバンド仲間の友人に誘われて、ヴェルディのレクイエムのコンサートに行った。その前に、知らない曲だったので、予習するためにカラヤン指揮ベルリン・フィルのレコードを買った。(クラシック初心者だった私は、当時、何でもかんでもカラヤンのレコードを買っていた。)
すると、コンサートに誘った友人くんは、私にこう言ったのである。

「レクイエムもそうだけど、ヴェルディを聴くんだったら、絶対イタリア人指揮者がいいぜ。」

(ちなみに友人と行ったそのコンサート(東京フィル)の指揮者はアルベルト・エレーデ、そいつが推薦したレコードはアバド指揮スカラ・フィルの録音だった。)

当時オペラに興味がなく、それ故にヴェルディにほとんど興味がなかった私は、彼の忠告に対して特に気にも留めなかった。
だが、やがて私は彼の言葉の正当性と重みを知ることになる。(もちろん、リッカルド・ムーティがきっかけである。)


言うまでもなく、イタリア人音楽家が抱くヴェルディへの尊敬と傾倒は、格別である。
きっとイタリア人の誇りであり、伝統であり、血なんだろうと思う。
そしてそれは、アンドレア・バッティストーニが注ぐ情熱にもそのまま当てはまっている。

彼は暗譜で指揮した。
当然だろう。スコアは既に体に染み付き、脳裏に焼き付いている。赴くままに棒を振れば、それがストレートにヴェルディの音楽となる。
彼のダイナミックなタクトからは、テンポや旋律、響き、各楽曲の構成といった表面的な形式ではなく、精神の更なる内面をえぐって音楽の真髄を剥き出しにしてしまおうという不敵な大胆ささえ伝わってくる。

どのコンサートでも、どの指揮者の演奏でも、「怒りの日」ディエス・イレの場面は圧巻激烈だが、バッティのそれは、ほとんど常軌を逸していた。聴いていて、目眩を起こしそうだった。全知全能の神の審判とは、かくも厳しいのだろうか。
バッティストーニは、本当に怒っていた。それは、もしかしたら現下のパンデミック禍の不条理に対してではなかったか。勘ぐりすぎかもしれないが、私にはそのように聴こえた。今この時レクイエムを奏でるのであれば、鎮魂や慰めではなく、怒りの叫びが必要だったのだ。

つくづく残念だったのは、合唱の大人数を揃えられなかったこと。
指揮者も合唱団も、最大限の精度で人的不足分を補った。それはそれで的確だった。
だが、多少の精度を欠いたとしても補って余りある大人数の合唱のド迫力は、絶対に得難いものである。やっぱり、のしかかった制限に対して拳を握るしかない。
(もっとも、大人数の合唱をバッティがあの激しいタクトで煽ったら、このホールの容量を完全にオーバーしてしまったかもしれないが。)

ソリストの歌唱も実に立派だったと思う。それは、この状況下でレクイエムのソロを任されたことの責任と意義を4人とも深く理解していて、それを歌唱にしっかりと投影させたからだ。

それでも、一点だけ欲を言わせていただきたい。
最後のリベラ・メのソプラノパート。
木下さんは歌っていた。素晴らしく、感動的なほどに。
でも個人的に願う。
そこは歌わないでほしい。祈ってほしい。典礼文を呟き唱えてほしい。
イタリア人ソプラノをはじめとするキリスト教の国の歌手たちは、そうしている。ひざまずき、十字架を握り締めている。(バルバラ・フリットリがやると、後光が差して聖母マリアが降臨してくる。)
キリスト教徒ではない日本人にとって、それがいかに難しいことかを理解しつつ・・・。