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2020/11/10 ウィーン・フィル

2020年11月10日   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団   サントリーホール
指揮  ワレリー・ゲルギエフ
デニス・マツーエフ(ピアノ)
プロコフィエフ  ロメオとジュリエット組曲、ピアノ協奏曲第2番
チャイコフスキー  交響曲第6番 悲愴


開催の決定が報じられてから、「11月10日は是非とも特別な公演になってほしい」と願いながらこの日を待っていた。
1月のフィルハーモニア管以来、10か月ぶりの外来オーケストラコンサート。
世界中に撒き散らされたウィルスが、この世のすべての歯車を狂わせてしまった。
外来公演を普通に鑑賞するという日常がすっかり失われていた中で、久しぶりに実現した舶来コンサート。
どうか末永く記憶に残るような、末永く語り継がれるような、そんな公演になってほしい・・・。

私はこの日、仕事を休んだ。
仕事を終えてから慌ただしくバタバタと駆けつけるのではなく、心の準備を整え、気分を徐々に高揚させていく、そうしたゆとりの時間をどうしても確保したい。
そう思ったのだ。


演奏を聴き終え、日が変わり時間が経った今、思う。
特別な公演であった、と。

私だけでなく、会場に集った皆がこの日を待ち望んでいたようだった。皆がウィーン・フィルの演奏に救いを求め、一縷の希望を託していた。
今、このような息の詰まる世の情勢だからこそ、我々には音楽が必要。音楽は人々の心を癒す。音楽は人々の沈んだ気持ちを照らす灯火となる。音楽を聴いて、前を向きたい。前を見つめたい。
皆がそのような思いを心に留めながら、会場に足を運んだのだった。

「なるほど、そういうことか」と私は合点がいった。

素晴らしい演奏が披露されれば、それは名演となろう。
だが、名演を越え、「特別な公演」となるためには、それだけでは足らない。素晴らしい演奏だけでは、特別な公演にならない。

「願い」、「込められた思い」、「溢れる感情」、そして「聴きたいという欲求」。

素晴らしい演奏に加えて、これらの4つが同時に醸成された時、演奏者と聴衆双方の間で一つになった時、その時に初めて「特別な公演」となるのだ。

この日は、まさにこれらが一つに重なった公演だった。


エモーションにどっぷりと浸りたい気分を一旦鎮め、純粋に演奏面に照らしながら振り返ってみる。

まず、圧巻だったのは、マツーエフのコンチェルトだった。
彼は、2016年9月にN響定期に招かれ、この時もプロコの2番を演奏して、聴衆の度肝を抜いている。(指揮はP・ヤルヴィ)
伴奏がN響からウィーン・フィルになっても、豪快なタッチは不変。
それどころか、世界最高のオケと、絆のあるゲルギーの好サポートを受けて、ダイナミックかつ壮絶なテクニックはますますエスカレート。燃焼のせいであたかも鍵盤から煙が立ち込めるのが見えるかのような、狂気の錯覚・・・。

マツーエフが繰り出す百花繚乱のピアニズムを目の当たりにし、呆気にとられながら、私は思い至った。
もしかしたら、マツーエフは現代に蘇ったラフマニノフではないか、と。


メインの悲愴は、ゲルギエフが前回ウィーン・フィルと来日した2004年の時にも披露している。同フィルとの録音盤も出ているし、早めのテンポで畳み掛けるように、一気呵成に追い込んでいくゲルギーのタクトと解釈は、ある意味、想定のとおりではあった。

だが、そこにウィーン・フィルの叫び声のような怒涛の迫力が加わり、「いつものゲルギエフ」という印象が完全に打ち消された。
聞こえたのは、「凄み」であった。
ウィーン・フィルは、このコンサートで私たちが安易に希求した「安らぎ」を容赦なく拒み、嗚咽と戦慄を伴う恐懼を聴き手に突き付けてきた。

悲愴という作品に潜んでいた残酷さが、ウィーン・フィルの極限の演奏によってクローズアップされ、私は打ちのめされたのだ。

演奏後の静寂(演奏団体と主催者の意向によって捧げられた黙祷)は、私にとって、止まってしまった脈動を再び蘇生させるために必要な時間だった。
この静寂の時間と、アンコールで演奏された「くるみ割り人形」の小品で、ようやく私は柔らかい空気を吸い、救いを得ることが出来た。
やはりこれは、特別な公演であったと思う。