旅行中、いくつか訃報が入ってきた。
ネッロ・サンティ、ミレッラ・フレーニ。クラシック関連じゃないけど野村克也さんも・・。
サンティはチューリッヒで亡くなったそうだ。ここの歌劇場との繋がりは深い。劇場チケットオフィスの窓口に、写真と共に彼の訃報の告知紙が貼ってあった。
フレーニが亡くなったというニュースは、ショックだった。
私がクラシック音楽に目覚めたのは中学生の時だったが(ただし小学生の頃から親に聴かされていたが)、オペラに目覚めたのはもっとずっと後。社会人1年目くらいだった。
オペラのCDをぼちぼち聴き始め、やがて貪るように聴くようになったその当時、イタリアオペラ界に君臨していた絶対的女王が、ミレッラ・フレーニだった。
その頃、私はマリア・カラスやレナータ・テバルディの録音は、あまり聴かなかった。古めかしい録音が音質的に好きじゃなかったから。
なので、私のヴェルディやプッチーニの名盤コレクションの主役は、たいていフレーニだった。
中でもお気に入りは、カラヤン指揮の「蝶々夫人」。同じくカラヤンとの「アイーダ」や「ドン・カルロ」、あるいはムーティ&スカラ座と録音した「エルナーニ」や「運命の力」なども捨てがたい。
それだけでなく、オテロのデズデモナも、ファルスタッフのアリーチェも、トスカも、彼女の歌はどれもこれも、すべて全部素晴らしい。偉大なディーヴァ、歴史に名を刻む名歌手だったと思う。
世間一般では、フレーニといえば「ボエーム」のミミ。
1988年にスカラ座が来日し、クライバーがボエームを振った時のミミは、フレーニだった。
空前の公演だったというのに、この時私は、別の演目「ナブッコ」(ムーティ指揮)に行き、聴き逃した。これは私の人生における痛恨のミスと言っていい。
(「ナブッコ」の方に行ったことがミスなのではない。「ナブッコ」と「ボエーム」の両方に行かなかったことがミス。もっとも、薄給リーマンだったので、複数行く余裕は全然なかったのだが。)
痛恨はこれだけではない。
1986年ウィーン国立歌劇場来日公演で、シノーポリ指揮「マノン・レスコー」にもフレーニは出演した。この時も「超が付く名演」と騒がれたのに、私は聴き逃した。この時私は、まだオペラの入門の扉を叩いていなかった。
ああ、もう少し早く開眼していれば・・・。残念極まりない。
「ボエーム」のミミに関して言うと、その後フレーニは1999年の藤原歌劇団の公演に出演するため来日。これを鑑賞して、なんとかリベンジを果たした。(今では考えられないことだが、当時の藤原歌劇団は、このように主催公演に世界的な歌手をゲストで招いていた。)
1993年と98年のボローニャ市立歌劇場来日公演も、印象深い。
特に98年は、なかなか上演されないジョルダーノの「フェドーラ」。舞台に登場したのは、フレーニとカレーラスという2大スーパースター。まさに夢の共演だった。
この98年来日公演では、ヴェルディ「ドン・カルロ」も来日演目になっていて、フレーニは出演しなかったが、旦那であるギャウロフがキャストに名を連ねた。
その公演会場(神奈川県民ホール)で、私は彼女を目撃した。
オフ日だったフレーニがお忍びで本公演を鑑賞するため、開演直前に客席に現れた。彼女は、なんと、私の3列くらい前のやや斜めの席に陣取った。
私だけでなく、周辺の観客がすぐに気が付き、ざわついた。(そりゃ、びっくりするわなぁ。)
その瞬間、誰からともなく、拍手が沸き起こった。
客席のあちこちの観客が「ん? 何事?」と振り向いて御来賓のお姿を見つけると、瞬く間に拍手が会場全体に広がった。
当のフレーニさんは、最初は照れくさそうに座っていたが、もうこうなったら答礼するしかない。立ち上がり、そして小さく手を振った。
その様子のすべてを、私は近くから食い入るように見つめていた。
フレーニとの直接的な思い出。まぶたに焼き付いているシーンだ。