2020年1月29日 フィルハーモニア管弦楽団 東京芸術劇場
指揮 エサ・ペッカ・サロネン
サロネン ジェミニ
マーラー 交響曲第9番
なんてハイグレードな演奏なのだろうか。
仕上がりが完璧でピュア。極上の塗装によって磨き上がったピカピカ感。あるいは、圧倒的な高品質を誇る有機ELテレビの8K映像のような解像度。
その眩さは、職人の熟練だとか伝統の粋だとかいったいぶし銀のぬくもりではなく、現代的なデザインと最先端技術による洗練された高級品の光沢みたいだった。
サロネンのマーラーは、死の暗示だとか忍び寄る病魔だとかいって、感情過多気味に唸り声を上げることもないし、ウィーン世紀末観をことさら強調することもない。そういうのは作品の周辺につきまとうイメージや付加情報であり、扱う指揮者の勝手な盛り込みであって、スコアが語っていることではない。サロネンのアプローチは、そういうやり方と決別しているのだ。
だから、その音楽は清々しいくらいオプティミスティックに聞こえる。
聴き手にピカピカ感や圧倒的な高品質の印象を抱かせるのは、サロネンが演奏の中に「『指揮者の解釈』という名の不純物」を排し、理想的な音を整然と並べているから。そこに、サロネン流の徹底したスコア主義が見えてくる。
拠り所は、自らに備わる才能への自信だ。
作曲家であるが故に作曲家の視点を持ち、冷静にスコアを捉え論理的に解析するという能力への自信。それから、オーケストラを機能的かつ自在にコントロールするタクトへの自信・・・。
「自信」という言葉を今ここで用いて、あっと思い出した。
サロネンのタクトから発せられる強烈な自信を、今回と同様に感じ、感想記事に書き留めたことが以前にあった。2017年5月、同じくフィルハーモニア管の公演。演奏曲目はマラ6。やっぱり同じくマーラーだ。
https://sanji0513.hatenablog.com/entry/34734807
改めて自分が書いた記事を読んで、大きな意味で、今回と同じようなことを感じ、同じようなことを述べていると思った。「自信こそがサロネンの音楽の美学」という表現は、我ながら的を射ていると思う。
そういえば2010年に、サロネンはウィーン・フィル来日公演でマラ9を披露するはずだった。急遽キャンセルとなり、幻となった。
あの時、キャンセルとならずに公演が実現したら、どれほどの衝撃だっただろうか。
いや、仮の話をしても仕方がない。こうしてフィルハーモニア管でハイグレードな演奏を披露したのだ。十分だろう。