クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2023年新年を迎えて

関東はこのところずっと穏やかな天気に恵まれ、お陰様で健やかで気持ちの良い新年を迎えることができた。
年末年始休暇のゆっくりたっぷりの時間は、音楽を聴いたり、録り貯めておいた映画を観たり、レギュラーシーズン大詰めのNFLのゲームを観たり、あるいはYou Tubeを眺めたりと、自宅に籠もっていても十分楽しく過ごせている。

自分もいい年なので、定年後の老後の過ごし方についてふと考えることがあり、そうした時、巷ではよく「することがなくなり、意欲も低下して、退屈で無為な生活が待ち受ける」なんてことを耳にするが、ホンマかいなと思う。
思い切りやりたいことをすればいいじゃんか。やりたいことが見つからないのなら、やりたいことを探せばいいじゃんか。
私なんか、書棚に並んでいるたった1回しか視聴していないCDやDVD、Blu-rayの陳列の山を眺めるだけでも「これらを全部、もう1回ずつ再視聴していくだけでも、いったい何年かかるのだろう・・・」と気が遠くなる。

とにかく、健康なうちにとっとと第二の人生に切り替え、やりたいことをやる。「いつかそのうち・・」なんて言っているうちにいつのまにか気力体力が衰えて・・・というのだけは絶対に避ける。

以上が、新年を迎え、改めて決心したこと。はい。


昨日の元旦は、WOWOWでメトロポリタンオペラのライブ、R・シュトラウスナクソス島のアリアドネ」が放映されたので、これを観た。
新年早々、いきなり猛烈に感動した。なんという素晴らしいステージ!

プリマ・ドンナ/アリアドネ役を歌ったリーセ・ダヴィッドセン!! ぶったまげた。この歌手、マジすっげー!!

いや、彼女がすごい歌手だということは、もちろん既に知っている。
そもそも私は彼女のアリアドネを生で観ているのだ。その時にもちゃんと衝撃を受けたのだが、今回改めてその凄さを再認識した。
このまま順調にキャリアを積んでいけば、間違いなくN・シュテンメの後継として「世界最高のドラマチック・ソプラノ」の称号を手にするだろう。いずれは一世一代のブリュンヒルデとなるだろう。彼女の未来は明るい。

指揮はマレク・ヤノフスキだったが、指揮しているそのお顔が、なんだか少しバレンボイムに似ているなあ、と思った。

そのバレンボイム、病気療養中だったが、12月31日と1月1日の2回、ベルリン・シュターツカペレとの第九を振るために一時復活した模様。
ただ、漏れ聞こえてきた噂によれば、やはり相当キツそうだったとのこと。完全復活にはまだまだ遠い道のりの模様。あまり無理せず療養に専念してほしいと思いつつ、それでも奇跡の復活を私は待ち望んでいる。


元旦恒例のバラエティ番組、「芸能人格付けチェック」。今年もやっぱり見ちゃいました。
プロの弦楽六重奏による総額70億円の世界的名器と600万円の聴き比べに、思わず集中して耳をすませる。
自慢じゃありませんが、ワタクシ最初の数秒で分かりました。結構確信があって、ばっちり正解。

ただねえ・・・じゃあ1000倍の差というほどの一目瞭然なのかと言われれば、決してそんなことはない。間違う人がいても全然おかしくない。
逆に言えば、「その程度の差でしかないのに1000倍の70億円って、おかしくね!???」

おそらくその価値というのは、単に聴き手に聴こえる音だけではなく、プロ演奏家の最高技術の要求に応えられる楽器かどうか、演奏家自身が満足する音かどうか、というのがきっと大きいのだろうねえ・・・。


最後に、お正月に飛び込んできた超ビッグニュース、ショパンコンクール第2位と第4位のゴールデンカップルの誕生!
こりゃ驚きました。でもいいニュースですね。おめでとうござんす。

2022/12/25 都響「第九」

2022年12月25日   東京都交響楽団   東京文化会館
都響スペシャ「第九」
指揮  エリアフ・インバル
合唱  二期会合唱団
隠岐彩夏(ソプラノ)、加納悦子(メゾ・ソプラノ)、村上公太(テノール)、妻屋秀和(バリトン
ベートーヴェン  交響曲第9番 合唱付


いわゆる日本の年末第九に行くのは、2011年以来。
純粋に第九の公演というのなら、それ以降も2012年のバイエルン放送響、2013年のウィーン・フィル、2018年のクリーヴランド管などの演奏を聴いているので、それほど久しぶりでもないし、決して第九を避けているわけでもない。自分にとって聴く価値が見出だせるのなら、聴きたいと思う。

逆に言えば、日本のオケによる年末第九というのは、自分にとって聴く価値を見出せない、ということになる。なぜ年末に第九なのか。「第九イコール年末に聴くもの」という構図、風潮は、少なくとも私には当てはまらない。(オーケストラ側にとってのドル箱、餅代稼ぎなどという裏事情なんか、はっきり言ってどうでもいい。)
コンサートのチケットを買う際には、必ず動機がある。その動機の中に「年末だから」「毎年恒例だから」みたいな理屈や感慨は存在しないのだ。

とまあ、そんなことを言っておいてなんだが、例外もある。
例えば前回の2011年。日本人なら決して忘れられない、あの年だ。この時、年末第九を聴こうと思った。聴くべきだと思った。なぜなら、もしかしたら年末第九には禊ぎ、心機一転のパワーがあるかもしれない、そう感じたからだ。

そして今年。私は同じ思いに駆られている。
もうホントいい加減にしてほしい。この閉塞感漂う世の中の雰囲気を吹き飛ばしたい。区切りを付け、来年に向けて気持ちを切り替えたい。ずっと我慢してきたが、来年こそは海外に行ってやる。

第九に行こうと決めた。そして選んだのが本公演。インバル様なら、年末の風物詩ではなく、純粋にベートーヴェン交響曲作品として取り扱い、披露してくれるだろう。そういう期待があった。

ということで、「インバルの第九」を期待して臨んだのだが、結果として実に面白かったのは、「都響の第九」として見事に仕上がっていたことだ。

もちろんインバルは指揮者の仕事をしていた。枠を作り、方向性を示し、快速テンポで音楽を動かしていた。
だが、細かいニュアンス、ベートーヴェンのエッセンスを作っていたのは、紛れもなくオーケストラ、というか都響の奏者たちだったと思う。

なんという優秀な奏者たちなのだろう。
指揮者の意図を汲み取り、指揮者の導く作品像を正確に描く。各パート間のバランス調整にしても、インバルがそれを怠っていたわけでは決してないが、他パートの音に耳を傾け、響きの中からどのようにして自分の旋律を浮かび上がらせるか、注意深く探っていたのは、奏者の方だったと思う。

インバルは楽だっただろう。
「楽」という言い方はちょっと失礼か。じゃ「やりやすかっただろう」にしておこう。オーケストラが自分の方向性に忠実かつ精密に従いながら、絶妙な音楽を率先して作ってくれるのだからね。

それでも、手柄を持っていってしまうのが指揮者というもの。良い演奏は全部指揮者のおかげ。喝采は指揮者が受け取る。

でもね、私はきちんと見抜きましたよ。都響の皆さんの実力、素晴らしい。毎年毎年飽きるくらい演奏しているのに、そうしたことを感じさせない一期一会の演奏能力、素晴らしい。
プロだねえ。

来年、ベルリン・フィルが来日

来年11月、ベルリン・フィルの来日公演開催が決まったらしい。
招聘元は今回もフジテレビ。実績を積み上げ、すっかり「ベルリン・フィル来日といえばフジ」が定着しつつある。常任指揮者キリル・ペトレンコが率いる初の公演だし、2021年に予定された来日公演がコロナで中止になった残念な経緯もあるので、本来なら期待が高まる嬉しいニュースのはず。

だがなあ・・・。
来てくれるのはとてもありがたいのだが、昨今の世界情勢、経済情勢からすると、チケット代、いったいおいくら万円になっちゃうの? という、想像しただけでゾッとしそうな気配が漂うのである。燃料費、輸送コストの高騰、円安為替レート問題は、きっとダイレクトにチケット代に反映されることだろう。
ちなみに、前回の来日公演は、S席4万3千円、最低席が1万8千円だった。
今回はいくらかなあ。まさかS席5万を超えちゃうかも?? ガクガクブルブル。外来オペラかっつうの。庶民にとって完全に高嶺の花。オマエら庶民は日本のオケでも聴いてろってか?
ひでえ。

もう一つ、「うぅーーん・・」となりそうなのが、プログラムだ。
何を演奏するのか、詳細が楽しみだが、既に発表された日程と会場を見ると、これはもしかして・・何となく予想ができちゃうんじゃないかという・・・。

サントリーホールだけで5回の公演予定・・・これさぁ、ベートーヴェン交響曲全曲チクルスじゃねえの?? 違う??

まあねえ、それに歓喜するファンはかなりいると思うし、あっしも別に嫌というわけでもないのだが・・・ベルリン・フィルのベトチクは2016年にもやってるんだよねー。


私が「うぅーーん・・」と唸ってしまうのは、ベトチクがどうとかではなく、要するに、どうしても無難な保守的定番路線に安易に向かっちゃうからなのだ。
往々にして、招聘エージェントというのは興行的観点でそっちの方へ仕向けようと、プログラム選定に首を突っ込み、口を挟んでくる。奴らに芸術的使命感はない。天下のベルリン・フィル来日公演を実現させることで己のブランドイメージ、地位名声を高め、そしてあわよくば儲けようとしている。

ペトレンコはとてつもない才能に溢れた指揮者である。彼を信頼し、彼の純粋な音楽志向に従えば、きっと意欲的かつ魅力的なプログラムが構成されることだろう。
そうなってほしいところだが、悲しいかな、招聘エージェントのみならず、待ち受ける多くのファンまでもが、実は保守的定番路線を望んでいるのだ。
演奏会という興行も商売である以上、そうなってしまうことを誰も止めることができない。

そういうことだ。もう仕方がない。諦め、受け入れろ。

ワールドカップを見終えて、ふと思った

ワールドカップが終わりましたな。サッカー漬けの毎日は楽しかったでござる。

日本はグループリーグで二つの巨頭を撃破し、世界を驚かせた。
しかし、その後、モロッコが「アフリカ大陸初のベスト4!」という躍進を果たすと、すっかり影が薄くなってしまいました。残念(笑)。

一方で、今回もまたまた現れました、スタジアムを清掃する日本人サポーター。
「立派な振る舞いに海外が絶賛!」みたいな話題が上り、日本人の美意識プライドが大いにくすぐられ、喜ぶ我らがニッポン。

で、そんな様子を冷めた目で見ながら苦笑するオイラ(笑)。
日本人は外国人から認められ、褒められるのが、ホント嬉しいんだよな。ちょっと自意識過剰なくらい。
日本が勝ったというニュースも嬉しいが、「日本の劇的勝利に海外メディアも称賛!」というニュースにも有頂天。メジャーで活躍する大谷翔平も嬉しいが、ショーヘイ・オータニをアメリカ人が大絶賛するというニュースにも有頂天。
そういや、テレビでも「世界に認められる日本の品質」とか「日本の美しさや、おもてなし精神などを絶賛する外国人」みたいな番組も、よく見かけるよね。

ま、いずれにしても、私なんかは「スタジアムやロッカーを清掃する素晴らしい日本人!」という話題はどうでもよくて、純粋にプロスポーツのゲームの中身と結果だけを注目したい。
試合そのものが美しいのだ。試合こそが称賛の的になるべきなのだ。

そこに安っぽいドラマや、話題をくっつけるんじゃねえ。

2022/12/14 都響

2022年12月14日   東京都交響楽団   東京芸術劇場
指揮  エリアフ・インバル
ウェーベルン   管弦楽のための6つの小品
ブルックナー  交響曲第4番 ロマンティック


初めてブルックナー4番の初稿版を聴いた時の衝撃といったら無かった。
と言っても、つい最近の話、今年6月、ケルン・ギュルツェニヒ管の来日公演だった。それまで、初稿版というのがあるということを知ってはいたものの、実際には聴いたことがなかったので、とにかくびっくり仰天、腰を抜かした。なんじゃこりゃ、全然違うじゃんか、と。

その後、私は初稿版のCDを入手。何度も聴いてお勉強したので、今回の都響ではさすがにそうした驚きはもう無い。新鮮味も失せた。

でも、改めて思った。現在演奏されることが多い改訂版(第2稿、あるいは原典版)は、見事に改善が施され、誰もが名曲と認める作品に仕上がったものだ、と。
「改訂版の方が耳に馴染んでいるから」ということもあるかもしれないが、決してそれだけではない。単純比較で、改訂版の方が圧倒的に良い。自分の好みの問題かもしれないが、作品の質は著しく向上していると思う。

ま、そりゃそうだろう。
作曲家は出来栄えに満足せず、「どうもイマイチだ。改善すべきポイントがある。」と認識し、修正してより良い作品に仕上げようとして、改訂に力を注いだわけだから。

だとしたら、初稿版を演奏する意義って、一体何なのだろうか。
作曲家が良かれと思って改良し出版したものを、後年の演奏家が「実は、当初はコレでした。ヤバ(笑)」みたいにばらしてしまうわけである。
いいのかよ、そんなことして。

前回インバルが来日したのは2021年1月で、その時彼は同じくブルックナーの3番を演奏したが、なんとこの時もやはり初稿版を採用したのだ。
つまり、今回の4番で彼が初稿版を採用したのは、たまたまでも結果論でもなく、明らかに最初から意図、狙いがあってのことだったと思う。

じゃあ、その意図、狙いは何かといえば、それは実際の演奏を聴いて何となく分かった。
二つ見つけた。
一つは、インバルは初稿版の中にも決して侮れない聴くべきポイントが潜んでいると知っていて、そこを正々堂々と明らかにすべきと心得ていること。
二つ目は、確かに初稿版には欠陥とまではいかなくともウィークポイントが多々存在しているが、それが改良によってどのように変化したのかを詳らかにすることで、作曲家と作品の両方の成長過程を発見できる、としていること。

そこらへん、インバルの確信は実に揺るぎない。
例えば、ほんの10日前、F・ルイージN響ブルックナー2番(なぜかこれも初稿版)を演奏したが、ルイージらしい鋭い切り口によって、かえって初期作品ならではの冗長さや野暮ったさ、作曲技法の甘さまで浮き彫りにしてしまうという、思わぬ結果が出てしまった。(それがルイージにとって「裏目に出た」と言っていいものなのかは分からないが。)

これに対しインバルの場合、そうした事態はもう最初から織り込み済みである。野暮ったさも作曲技法の甘さも、「だから何だ!」「これでも喰らえ!」の如く、堂々と開き直っている。その上で、それを補って余りある魅力の発掘に最大限のスポットを当てているのである。
公演の後、SNS上で多くの聴衆から「初稿版いいね」「意外と面白いね」という感想がいくつも見られたのは、インバルがまさに狙った演奏効果の賜物というわけだ。

ただ、私としては、やっぱり改訂版(第2稿、原典版)を聴きたかったというのが偽らざる気持ちである。インバルの意図は狙いは自分なりに理解できたし、都響の演奏だって力演で素晴らしかった。にも関わらず、じゃあ感動したかといえば、答えはノーなのだ。
(インバルと都響のロマンティック改訂版は、2015年に演奏されているとのことだが、残念ながら私は聴き逃している。)

もっとも、初稿版を紹介することで、通常演奏されることが多い版の良さを聴衆に再認識させようという意図まで含まれているというのなら、もはや何にも言えねえが・・。

2022/12/9 ドイツ・カンマーフィル

2022年12月9日  ドイツ・カンマーフィルハーモニーブレーメン  東京オペラシティコンサートホール
指揮  パーヴォ・ヤルヴィ
ベートーヴェン  コリオラン序曲、交響曲第8番、交響曲第3番 英雄


本当は、この日の前日に行われたハイドン・プログラムの方に行きたかった。
ていうか、本当は両日共に行きたかった。さすがにSKB公演とのバッティングじゃ、しようがない。

だが、お客さんの中には、もしかしたら天秤に測り、ドイツ・カンマーを選び、あえてサントリーホールに背を向けてオペラシティに駆けつけた人もいたのではあるまいか。

その人たちの選択と決断は、決して間違ってない。

ティーレマン&SKBの演奏がドイツらしい重厚さと、熟成された伝統の響きを兼ね備えていたとしたら、このドイツ・カンマーは、いかにも室内管らしく洗練され、溌剌とした響きが持ち味で、実に爽快だ。ピリオド奏法を取り入れているが、古楽演奏の追求だけに留まらず、その時代の息吹を蘇らせるべく、各プレーヤーが積極的自発的に音色を創り出そうとしていて、そうしたアンサンブルが本当に鮮やかである。

これはヤルヴィ、楽しいだろうなと思う。
なぜなら、ヤルヴィという指揮者は、自らの仕掛けに対するオーケストラの反応と展開力を期待し、その相乗効果を常に狙っているから。
いわば、思い通りの音楽作りが出来るオーケストラなのだ。
このオーケストラの芸術監督になって18年という長期政権。あくまでも推測だが、本人としては、オケ側から望まれる限り今後も指揮を続けたいのではないか。

私自身も、このコンビの演奏をもっともっと聴きたいと思う。
N響のほか、パリ管、hr響、トーンハレ管などとの来日ですっかりお馴染みのヤルヴィだが、ドイツ・カンマーとのコンビの演奏が一番良い。

2022/12/7、8 シュターツカペレ・ベルリン

2022年12月7日、8日   シュターツカペレ・ベルリン   サントリーホール
指揮  クリスティアンティーレマン
12月7日  ブラームス  交響曲第2番、第1番
12月8日  ブラームス  交響曲第3番、第4番


日本でティーレマン指揮の公演が行われると、鑑賞した聴衆の感想文句として、SNS上には「ティーレマン節」という言葉が散見される。
テンポや強弱、ルバートやパウゼなど彼独特の緩急自在のアゴーギクデュナーミクのことを表しているとされ、人によってはオーバー、強引と感じるかもしれず、以前はどちらかというと「あざとい」といったネガティブな意味で使われていたと思う。近年、ティーレマンの力量が世界的に評価されるようになり、聴衆も実際にその説得力に圧倒されるようになると、徐々に肯定的に使われるようになってきた。

何を隠そう、私も昔は彼の大胆不敵な表現を目の当たりにしながら、「これぞティーレマン節」と称したこともあった。

時が経ち、彼の指揮する演奏を何度も聴いてきた今、感想文句としてそのような言葉を用いることはなくなった。
独特のアゴーギクデュナーミクは、決してウケを狙っているわけではなく、わざと違いを生み出そうとしているものでもない。もっと必然的かつ根源的なもの、紙に書かれてある音符に指揮者が生命力を吹き込んで音楽に昇華させるための神秘のパワーであることを完璧に理解したからだ。

この理解に到達した時から、私はティーレマンの演奏を「人間的なもの=ヒューマニズム」と感じ取るようになった。演奏にダイナミックな動きや変化がみられるのは、人には喜怒哀楽があり、様々な感情があり、日々の行動があり、進化成長しているからである。
例えば、彼が大きく煽ったかと思った瞬間、サッと身体をよじって裏返しにしたりするのは、人間の相反する複雑な感情の起伏、気持ちの揺れ動きのように思える。

そうした意味において、今回のブラームスは私にとって画期的な体験であった。

これまで、私がブラームス交響曲を聴いてなんとなく頭に思い浮かべていたのは、風景や慕情だった。絵画を見るような感性が働いていたと思う。
今回のブラームスにおいても、演奏を聴きながら絵画的風景を思い浮かべることは出来る。
だが、これまでと違うのは、その絵画の中に生き生きとした人間の営みが見えることだ。
そう、ピーテル・ブリューゲルの絵画のように。


かのごとく思いを巡らせた結果、私は、なぜティーレマンのレパートリーが頑然とドイツ・ロマン派付近に留まっているのか、なんとなく分かったような気がした。ヒューマニズムを追求しようと思った時、ロマン派主義に行き着くのは自然の成り行きだろうからだ。


シュターツカペレ・ベルリンの演奏も実に見事で味わい深かったし、指揮者ティーレマンの志向をしっかりと具現化していたと思う。
これまでこのオーケストラとティーレマンとの結び付きはほとんど無かったはずだが、やはり10月のリング・サイクルの代替共演で、ティーレマンの真骨頂とも言えるワーグナー上演を経験したのが大きかったのではないかと思う。短期間であっという間に絆が結ばれたのではないか。

だとするならば、バレンボイムの後任はもうティーレマンで決まりでいいんじゃないかと思いきや、シュターツオーパー総裁はこれを明確に否定しているらしい。
その理由というのが、まさに上記の頑然と固執したレパートリーにあるのだという。曰く、それでは劇場の未来への展望、発展性を見つけられない、と。

なんで? いいじゃん、別にそんなの。
ドイツ・ロマン主義の牙城、最後の砦となる現存唯一無二のドイツ人指揮者ではないか。
シュターツカペレ・ベルリンは450年の歴史を誇るわけでしょ?その伝統と栄光を未来に繋げることが出来る指揮者を放っておく手はないと思うのだが・・・。