クラシック、オペラの粋を極める!

海外旅行はオペラが優先、コンサートが優先、観光二の次

2021/9/25 東響

2021年9月25日   東京交響楽団   サントリーホール
指揮  ユベール・スダーン
加納悦子(メゾ・ソプラノ)
フランク  交響詩プシュケより 第4曲プシュケとエロス
ショーソン  愛と海の詩
ベルリオーズ  幻想交響曲


2年ぶりの東響&スダーン。
東京交響楽団がこの指揮者を桂冠指揮者に奉り、音楽監督退任後もこうして継続的な結び付きを維持しているのは素晴らしいし、ファンとして嬉しい。
私なんか、「なぜこの指揮者が世界トップランク指揮者に数えられないのか不思議」と、かねがね思うとる。まあちょっと(相当?)贔屓が入っているが。少なくとも同じオランダ人のエド・デ・ワールトなんかより遥かに上だと思うとる。

ま、世界トップランク指揮者だったら、東響のためにこうして来日してくれることも難しいので、それでもいいか・・。

そして、ベルリオーズの幻想。
これまでに東響と「劇的交響曲ロミオとジュリエット」、「テ・デウム」、「ファウストの劫罰」とやってきて、ついに幻想、来たか!
(いつか「レクイエム」やってくれ!)

その幻想、文句なく逸品の演奏。
先日、東京フィルがチョン・ミョンフンの忠実な下僕となって渾身の演奏を繰り広げ、衝撃を受けたばかりだが、まったく同じ光景を見た。いやー、すごいものを見た(聴いた、か)。
作品の中から斬新な解釈を生み出す指揮者というのも立派だが、オーケストラのレベルを一段引き上げ、別次元に導くことが出来る指揮者も偉大。スダーンは、そういう指揮者。この日、まざまざとそれを証明した。

音楽的には、スダーンは多分そんなに難しいことをやっていないんだと思う。複雑怪奇なスコアを丁寧に整理整頓しているだけ。
だけど、整理整頓こそが絶大な効果を及ぼしているわけである。サウンドがクリアになるし、ベルリオーズ標題音楽として込めた旋律のグロテスクさも露わになる。これぞスダーン・マジックの極意。有名なこの幻想を聴き慣れて知り尽くしている愛好家でさえも、この日の演奏に新鮮な香りを感じたはずだ。

やはりこの指揮者の公演は聴き逃すべきではないと、改めて実感。
この日、会場入口で配布されていたコンサートチラシを覗いてみたら、12月14日に東京音楽大学シンフォニーオーケストラを振る公演を発見。
12月14日は読響公演があって、それに行こうと思っていたのだが・・・ちょっと迷い始めている今日この頃・・。

2021/9/22 曽根麻矢子 J.S.バッハ連続演奏会

2021年9月22日   曽根麻矢子 チェンバロリサイタル(J.S.バッハ連続演奏会Ⅱ)   Hakuju Hall
バッハ   平均律クラヴィーア曲集第1巻


Hakuju Hall(ハクジュホール)に初めて行った。創設されたのが2003年とのことなので、18年も経ってようやくである。まあ要するに、普段あまり室内楽のコンサートに行ってないというわけだ。

いざ行ってみると、ホールはオフィスビルの7階にあって、エレベーターで上がっていくというのが、なんだか味気ない。「さあこれからコンサートだ! 音楽聴くぞ!」という高揚感が生まれない。客席数300の小ホールだし、一企業が運営管理するのだから仕方がなく、文句を言う筋合いなんてないんだけどさ。

それから、ここのホールの特色であるリクライニングシート。
優雅で贅沢な鑑賞体験というのが売りなのだと思うが、実際にこれをやられたら、後部座席の人はおそらく戸惑うだろう。飛行機のエコノミークラスで無遠慮にこれをやられると、少なからずの不快感を覚えてしまうのと同様。
実際、座席を後ろに倒して聴いている人は、少なくとも私が見渡す限りにおいて誰もいなかった。もしかしたら、特別な指定コンサート限定なのだろうか。よくわからないが。


さて、この日の目的はHakuju Hallではなく、当然のことながら曽根麻矢子さんのバッハ演奏である。
何を隠そう、曽根さんの演奏を聴くのも今回が初めてだった。だが、彼女の日ごろの活躍、チェンバロ奏者としての実力が高く評価されていることは、もちろんよく知っている。
そんな彼女が、5年をかけて10回のバッハ作品連続演奏会を敢行する。ある意味、キャリアの集大成とも位置付けられる、一大プロジェクトであろう。今年3月に行われた第1回のコンサート(ゴルトベルク変奏曲)は、行きたかったが都合がつかなかった。今回、満を持してついに足を運ぶことになった次第というわけだ。


まずは、チェンバロ特有の繊細な音色に惹かれていく。チェンバロ単独の演奏を耳にする機会に乏しいから、とにかく新鮮だ。
そうした音色の新鮮さから耳が慣れてくると、今度は徐々にバッハの音楽的なムーブメントに魅了されてくる。
曽根さんの演奏は、一曲一曲をあたかも本のページをめくるかのように、物語を読み聞かせてくれる。聴き手は、その演奏を堪能しつつ、次のページをめくったらどんな展開が待っているのか、といったワクワク感を滲ませる。
これは、ゴルトベルク変奏曲や、無伴奏ヴァイオリンパルティータのシャコンヌなどを聴いた時にも陥る、バッハ鑑賞特有の感覚だ。この感覚を曽根さん演奏のチェンバロで味わえたのは、本当に楽しかった。


演奏が終わり、一冊の本が閉じられた。
だが、聴き手の私は、子供のように、すぐにまた次の本を読み聞かせてほしいとねだる。
次は、来年3月とのこと。
あ、そう。じゃ、また行かなくてはね。
そんな思いで帰路に着いた。

2021/9/19 東京フィル

2021年9月19日  東京フィルハーモニー交響楽団   オーチャードホール
指揮  チョン・ミョンフン
ブラームス  交響曲第3番、第4番


7月に1番2番を聴いた時もそうだったが、指揮者とオーケストラの結び付きの強固さ、相互信頼の深さを目の当たりにし、聴いていて熱い物が込み上げてくる。「この指揮者にどこまでも付いて行く」、もっとオーバーに言えば「この指揮者のためなら死ねる」とでも決意しているかのような東京フィルの献身的な演奏姿勢は、単なるあっぱれを越えて、感動的でさえある。

チョンはこのような結び付きを「ファミリー」と称しているようだが、私にはその献身さをもたらした絆が何となく理解できる。

家族というのは、普段は何気なく、当たり前の存在なんだろうと思う。
ところが、離れ離れになったり、誰かが病気になったりした時、初めてかけがえのない大切な存在であることに気付く。
東京フィルは、コロナのパンデミックによって、演奏することが当たり前でなくなる事態に直面し、絶大な信頼を置いていたチョン・ミョンフンも来日中止に追い込まれた。
20年にわたって築き上げてきた良好な関係が閉ざされそうになった時、オーケストラは心の底からチョン・ミョンフンとの再会を望んだ。
きっと、そういうことなのだと思う。


演奏は、3番も4番も、燃焼度が高かった。
普段は高いところにいるプロの奏者たちが、こんなにも渾身の力で魂の演奏を聴かせるのを久々に聴いた。東京フィルは、完全に指揮者と一体化していた。
おそらくチョン・ミョンフンは、目を瞑り、イメージし、腕を振った時、そのイメージどおりの音を手にしていたのではないか。
もしそうだったのなら、これはオーケストラ演奏の理想郷である。彼らは、もしかしたらそこに到達してしまったのではあるまいか。

ならば、私は望む。強く要望する。
2月公演で中止になってしまったマーラーの「復活」を、是非やってほしい。
今の両者なら、とてつもない空前絶後の名演が生まれてもおかしくはない。

バイロイトの「さまよえるオランダ人」

今年のバイロイト音楽祭で上演された「さまよえるオランダ人」のライブがNHKのBSプレミアムシアターで放映され、これを視聴した。

何はともあれ、今年音楽祭の幕が開いたのは良かった。昨年はコロナで中止に追い込まれた。第二次世界大戦以来の中止という事態は、仕方がなかったとはいえ、ファンや関係者にとって衝撃的なことだったと思う。今年はキャパシティの半分という入場制限を実施の上、ようやく開催にこぎつけた。

バイロイト、現地ではどんな様子だったのかな、と想像してみる。
欧米人にとって劇場は社交の場であり、特にバイロイトのような高級音楽祭は、そうした風潮が強い。みんな集まって飲み食いしながら談笑するのが好きだから、感染予防としては若干心配な面もあろう。
その一方、ワクチン接種は進んでいるから、比較的おおらかでオープンな雰囲気になっているのかもしれない。

ちなみに、演奏終了後のカーテンコールでは、バイロイト名物の足踏みドンドンに加えて、盛んにブラヴォーが飛び交っていた。飛沫防止マナーなんか全然お構いなし(笑)。
サッカーのスタジアムでも欧州はお客さんが戻りつつあり、みんなマスクをせずに堂々と声を張り上げて応援している。こういうのを見ると、良い意味でも悪い意味でも「欧米だよなー」と思う。


さて、オランダ人である。
何かとお騒がせな演出家、ロシアのチェルニャコフが登場だ。
やれやれチェルニャコフ、ついにバイロイトに招かれてしまったか・・。
確かにバイロイトは昔から実験劇場の趣きがあって、過激な演出を厭わない伝統がある。そもそも総裁のK・ワーグナー女史がそういう演出家なのだから、これはもう順当、呼ばれるべくして呼ばれた演出家と言えそうだ。

既にこれまでに何度も言及しているとおり、私自身は現代演出、読替演出は嫌いじゃない。
ただし、そこに作品を研究した結果としての必然性が伴っているべきだ、というのが私の持論だ。
つまり、作品の中に多様な解釈の余地が存在したり、別の角度から眺めると違った一面が見えたり、といったポテンシャルがあり、それを浮き彫りにする意義があるのなら大歓迎だが、単なる思いつきやこじつけ、斬新さだけを追い求めた演出は大いに疑問あり、ということである。

そういう意味で、チェルニャコフは若干グレーだ。
彼の場合、最初から読替えありきで、そこからスタートし、物語をいかにすり替えるかが最大の関心事ではないかと勘ぐりたくなる。このオランダ人の演出にしても、そうした臭いはプンプンする。

一方で、チェルニャコフは読替えをすることで作品に新たな可能性が生まれる、ということは間違いなく確信しており、その信念に基づいてチャレンジしている。その試みは、ある意味潔いとも思う。

単なる思いつきではないことも明白だ。
「オランダ人の永遠の断罪は、幼少の頃、母親が男(ダーラント)に弄ばれ、閉鎖社会の犠牲になって自殺を遂げた場面を目撃してしまったというトラウマからきている」という読替えは、オランダ人とは何者か、オランダ人の暗い人格はどのように形成されていったのか、という演出家の探求の帰結なのだ。

それにしてもチェルニャコフ、カーテンコールで盛大なブーイングを食らっても意に介さずに笑みを浮かべるあたり、不敵なヤツである。


音楽祭初の女性指揮者オクサーナ・リーニフ。これは本当に素晴らしい演奏だった。
女性とは思えない強力なパワーとエネルギーでワーグナーの音楽を思う存分鳴らし、カーテンコールでも大喝采を得ていた。空前の成功を収めたと言っていいだろう。

もう一人の初登場、ワルキューレを指揮し、来年の指環四部作を任されているピエタリ・インキネンは、聞き伝によればかなりのブーイングを浴びたらしいので、結果は好対照だったのかもしれない。

2021/9/12 藤原歌劇団 清教徒

2021年9月12日   藤原歌劇団   会場:新国立劇場
ベッリーニ  清教徒
指揮  柴田真郁
演出  松本重孝
管弦楽  東京フィルハーモニー交響楽団
東原貞彦(ヴァルトン)、伊藤貴之(ジョルジョ)、澤﨑一了(アルトゥーロ)、岡昭宏(リッカルド)、古澤真紀子(エンリケッタ)、佐藤美枝子(エルヴィーラ)   他


観に行っておいてなんだが、ぶっちゃけはっきり言うと、私は藤原がキライである。
「イタリア物中心」、「人気演目中心」、「保守的な演出」、「お友だち指揮者、お友だち演出家の起用」といったいかにもぬるい方針は、共感できないどころか、嫌悪感さえ覚える。これぞ藤原のポリシーであり、ある意味それを売りにしているわけで、そこにブツブツ文句を言うのはホント申し訳ないが・・・。

だいたい何でイタリア路線なんだ? イタリア人じゃあるまいし。
そのイタリアだって、普通にドイツ物もフランス物もやってるぜ。なぜなら、ドイツ物もフランス物も同じ「オペラ」だからだ。
あんたたちは「オペラ団体」じゃないのか?

今や世界のどこの国であろうと、どこのローカル中小劇場であろうと、あらゆるレパートリーを開拓し、限られた予算の中で気鋭の指揮者や演出家を登用するなど、積極果敢にチャレンジしている。既存のことをやっているだけでは生き残れない厳しい状況下で、必至に活路を模索しているのだ。
そうした観点からすれば、藤原のポリシーは気概がなく、チャレンジ精神のかけらもなく、伝統という名の現状維持に甘んじ、ぬるま湯に浸かっているとしか思えない。

一頃、ロッシーニの神様だったマエストロ・ゼッダを定期的に招聘し、「セヴィリア」や「チェネレントラ」以外の作品を採り上げていたことがあって、その時は私も全力で応援し、会場に足を運んだ。だが、ゼッダ氏が天国のロッシーニの下に旅立つと、あっという間に元の路線に引っ込んでいった。


かのごとく私にとって取るに足らない藤原歌劇団だが、「それやるか!? ならば行かねば!」と思う公演がたまーにある。滅多にないが。
今回の「清教徒」がまさにそうだ。

私の知る限り、この作品が日本で上演されたのは、これまでにたったの3回しかない。
そのうち2回が、2002年と2011年のボローニャ歌劇場来日公演。
そして、残りの1回が、1989年藤原歌劇団の主催公演だ。ただし、肝心の主要キャストは外国人に頼った。

今回はオール日本人キャストである。
おいおい、マジか。大丈夫なのか。
主役のエルヴィーラはいいとして、アルトゥーロは難役だぜ。超が付くハイトーンが求められる。日本だけでなく、世界でもなかなか上演されないのは、アルトゥーロを歌えるテノールを確保することが難しいからではないか。

まあいい・・・。
ベッリーニの珠玉の逸品をやってくれるというのなら、歌唱に多少の難があっても、許す。
どんなにコテコテの保守的演出であったとしても、許す。
なかなか上演されないこの作品を採り上げた、そのこと自体が快挙なのだ。


さて、そのアルトゥーロ役を担った日本人テノール澤﨑さんだが、驚いた。超絶ハイトーンをバッチリと決めて見せたのだ。
超絶ハイトーン・・3点Cis音、D、そしてF。人間業じゃない。かつて、あのドミンゴもC(ド)さえ出すのが難しくて「シミンゴ」なんて揶揄された。ピッチャーで言えば、160キロ超の世界。それを、澤﨑さん、あんたがまさか・・・。

そうだったのか。藤原は彼を発掘し、「行ける!」と判断し、「清教徒」上演に踏み切ったのだ。藤原に救世主が出現したってわけだ。

エルヴィーラを歌った佐藤さんは、貫禄、盤石の歌唱。本当のことを言うと、個人的には好きな歌い方ではないのだが、いいでしょう。澤﨑さんと同様に、今回の上演を成功に導いた一人であることは間違いない。


演出については、最初から1ミリの期待もしておらず、その0ミリの期待を0.1ミリも上回らなかった。
あのさー、わりぃけどあの程度でいいんだったら、オレでもできるわ。オレがやってやるよ。たったの100万でいいぜ。値下げも応相談。どうよ。あ?

2021/9/11 二期会 魔笛

2021年9月11日   二期会   東京文化会館
モーツァルト   魔笛
指揮  ギエドレ・シュレキーテ
演出  宮本亞門
管弦楽  読売日本交響楽団
妻屋秀和(ザラストロ)、金山京介(タミーノ)、安井陽子(夜の女王)、嘉目真木子(パミーナ)、萩原潤(パパゲーノ)、種谷典子(パパゲーナ)、高橋淳(モノスタス)    他


リンツ州立劇場と共同制作し、これで3回目となる再演版。
なのに、私は今回初めて観る。
国内で新演出されるオペラ上演なら、大抵観たい衝動に駆られてチケットを買うはずなのに、なぜ見逃していたのだろう・・。
などと言いつつ、答えは自分でも分かっている。

要するに、自分にとって魔笛はどうしても観たいオペラ作品ではない、ということなのだ。

なんとなく・・・はっきり「どこが」とは説明できないが、なんとなくつまらないと思っている。
モーツァルトの作品に対して「つまらない」とは随分と言ってくれるじゃんか、と突っ込まれるかもしれない。私の知り合いでも、「モーツァルトで一番好きなのは『魔笛』」と答える人が何人かいるというのに。
でも、好みの問題なんだから、仕方がないんだよな。
随分と前、ウィーンで観た時、天下の国立歌劇場の上演をもってしても「つまらんなー」と思ってしまった。
その時、現地で偶然知り合った人と終演後に語り合い、正直な気持ちを話したところ、その人はこう言ったのだ。

「まあ、魔笛魔笛だよねー(笑)」

この「なんだかよくわからないけど、さもありなん」の一言こそ、私の気持ちを見事に代弁し、言い得て妙、一番しっくりくる表現なのであった。


えー、私の鑑賞記は本題とは関係ないところから入って回り道するという悪い癖があるが、話を本公演に戻そう。

話題になっているのは、宮本亞門氏が手掛けた斬新な演出。観た目に楽しく、なるほど再演を重ねられる理由が分かる。プロジェクションマッピングを利用した創造的な舞台は、確かに目を見張り、効果的だったと思う。

特に、宮本さんがさすがだと思うのは、映像のタイミング、役者の演技、動きなどがきちんと音楽に合っていること。ちゃんとモーツァルトの音楽を土台にしており、オペラ演出家としての心得を分かってらっしゃる。
もっとも宮本さんは常日頃からオペラ愛に溢れている方なので、本人からしてみれば「当たり前でしょ!」ということかもしれない。

一方で、個人的にツッコミしたいところもある。
夫婦間が上手くいっていない現代の家庭の旦那が、TVゲームの仮想世界に飛び込み、試練の体験を経て、再び円満な家庭を取り戻す、というアイデア自体は良い。
だが、仮想世界に飛び込んだ後は、単なる元の魔笛の物語に置き換わってしまって、一貫性が感じられない。コンセプトのとおりなら、「普通のサラリーマンがファンタジーの世界に紛れ込む夢と冒険の物語」であるはずだが、サラリーマンとは何の関連性もないタミーノの物語が展開。
それ故に、最後に現代に戻って夫婦間で仲直り、というのが、いかにも取ってつけたようなこじつけ、無理やり帳尻を合わせる形になってしまっている。これはちょっと興ざめだ。

ラストの場面で、こうした帳尻合わせの寸劇の犠牲により、合唱の大団円が省かれたのも、大いに不満。
ラストの合唱の大団円というのは、スペクタクルであり、カタルシスであり、オペラの醍醐味である。これを舞台裏に隠してしまった罪は大きい。
まさか、コロナ対策だったというわけじゃないよな??


指揮のギエドレ・シュレキーテは、代演による初来日。
彼女の切れのあるタクト、切れのある音楽こそ、本公演の白眉だ。
やる気十分、気合十分、モーツァルトを指揮する喜びに満ち溢れた、明るく前向きな音楽。

彼女のような新進気鋭の若手指揮者を見つけ、抜擢して連れてきたのは、主催団体の見事な功績、お手柄だ。
今、彼らは活躍の場を求めている。ましてやコロナ禍。
シュレキーテは今回の客演をきっとチャンスと捉えたはずだ。だからこそ、2週間隔離の困難を受け入れてくれたのだと思う。

まだまだ厳しい状況がしばらく続きそうだが、日本の各オーケストラも、安易にスケジュールが空いている国内の指揮者に頼らず、こうした指揮者を見つけ出す努力を怠らないでいただきたい。


歌手について。
細かい部分に目をつぶれば、十分に満足のいく出来栄えで、とても感心した。
ほんの二週間前に難曲ルルに挑戦し、大成功を収めたばかり。同時並行で魔笛のリハを重ね、これはこれで素晴らしい成果を上げたとなると、私のこれまでの二期会評価について、再考する必要がありそうだ。
もしかして、今、二期会に上昇気流が発生している?? まさか・・。
コロナ禍なのに?? 
コロナ禍だから、なのか??

そして、来年にはシュトラウスの大作、「影のない女」が控える。
これはもしかして、ひょっとして・・・。

魔笛」やってその後に「影のない女」というのも、センス光るよね。
(オペラファンなら、その意味はお分かりのはず。11月に「こうもり」やるけど、それはまあいいとして(笑))

そろそろ出口を見つけようよ

9月4日に一般発売開始となった11月のウィーン・フィル来日公演のチケットは、早々に完売したそうな。
まあそうだろう。外来公演がことごとく壊滅状態の中、唯一特例扱いを受けて開催が実現しそうな特別オーケストラなのだから。「他は無理でも、ウィーン・フィルなら、昨年のこともあるし、やってくれるかも」という期待があるからこそ、多くのファンがチケット申込みに走ったのである。

昨年のウィーン・フィル来日公演は、何もかもが異例だった。
国家間の友好と文化交流を後ろ盾にした高度な政治決定。チャーター機での来日。移動の新幹線もバスもすべて貸し切り。厳重な隔離、厳重な検査管理体制・・・。
そうやってようやく開催にこぎつけることが出来た、スペシャルな海外オーケストラ公演だった。

あれから一年・・。
唖然としてしまうが、事態は何にも変わっていない。少なくとも日本では。依然としてオーケストラを始めとする団体の来日公演はほぼアウト。
「来年あたりは、少しは状況が改善されるかな?」と昨年に抱いた期待は、完全に裏切られた。
ウィーン国立歌劇場来日公演は中止。ベルリン・フィルも中止。来年1月に予定されていたシカゴ響の来日公演も中止・・。
つい先日もハーゲン・カルテットの来日中止発表があった。4人なら何とかなるかな、と思ったがダメだった。

これまでなら、諦めは付いた。こんな状況じゃ無理だというのは自明だし、2週間隔離条件は非常に厳しい措置である。仕方がないなと納得できた。

だが、状況が変わらず、変わる兆しさえも見えない現状に、だんだんと苛立ってきたし、ヤバいんじゃないかと危惧するようになってきた。欧米が経済再生に舵を切るようになり、徐々に活動再開の動きを見せ始めているからだ。
8月23日の読響公演の感想記事にも書いたが、そのうち各演奏団体は「別に無理して日本に行く必要ないよな」という判断を働かせるようになるのではないか。そうやって、やがて見向きもされなくなってしまうのではないか。

つい先日、ちょうど政府の感染対策分科会でも提言が出ていたが、是非そろそろ出口戦略について検討してほしいし、きちんとした行程を示してほしいと思う。
これは単にクラシック音楽の外来公演といった小さな問題に留まらず、日本経済の再生に直結する課題なのだ。

入国制限は、グローバル経済の観点からすれば、停滞後退の最大要因になり得る。国際競争に出遅れることが必至だからだ。
それに、例えば農林水産業や医療介護などの分野で今や必要不可欠な存在になった正規の外国人研修生や技能実習生たちが来日できないことで、各現場において深刻な人手不足に陥る事態が発生している。これもきっと大きな問題であろう。日本語を学び、日本に貢献してきた彼らは、もしかしたら今後、選択肢から日本を外すようになってしまうかもしれない。


・・・ま、早い話、日本経済うんぬんより、単に早く以前のように日本にたくさん外来演奏家たちが来てほしいという個人的な願い、ということで(笑)。
毎年11月頃は外来公演ラッシュが恒例だった。あの頃、「いやー、金がいくらあっても足らんわい」と嬉しい悲鳴を上げていたのが懐かしい・・。